クウェートといえば、湾岸戦争で一躍有名になった国だが、それ以外ではあまり話題になることのない国。先日イラク人のドクターを1000人もクウェートに呼んで学会を行うというので見に行った。宣伝ではイラクの国旗とクウェートの国旗が仲良く並んでいたけれど、ふたを開けてみると、ほとんどのイラクのドクターにはビザが出ず、結局入国できたのはたったの10人ほど。閑散とした会場だった。なんとなくクウェートには裏切られたという感じ。イラク人とクウェート人には根深い対立が続くのだろうか?
せっかく来たのだからクウェートの町を覗いてみる。この町にはインド人が多い。実はクウェートには、クウェート人は37%しかいないという。あとは出稼ぎの、インド人、バングラディッシュ人、アラブ人など。ほとんどが単身赴任だから、男人口が多い。彼らの中には、親戚の中でローテーションを組んで半年ごとに出稼ぎに来ているものもいる。
ここの食事はインド料理が多い。ただ、アラブ人の出稼ぎもいるからインド+アラブのミックスされたテイスト、これがなかなかうまいのである。イラク人スタッフのイブラヒムとレストランに行く。中でもお勧めはブリアーニ。イラクのブリアーニとはちょっと違って、関西のうな重みたいにスパイスの効いたご飯の中に魚とかチキンが埋まっている。イブラヒムは辛いインド料理は苦手。「辛いのはダメだ」とボーイに注文をつける。「俺はおなかがすいているから20分で持ってきてくれ。20分だぞ。本当に。さあ、これから時間はかるからな」なんとなくインド人には、態度がでかい。
実は、日本人の友人がたまたま、インド人と一緒に暮らしているというので部屋を見せてもらった。ダウンタウンの商店街の裏のほうにインド人が住んでいるアパートがある。ベッド一個を借りて一部屋に4、5人で共同生活をしている。廊下はごみであふれ猫が住みついている。ベッドには虫がわいてかゆくてたまらないそうだ。
イブラヒムも一緒に連れていった。イブラヒムはバスラにすんでいて、自分のことをいつも「イブラヒム貧乏、貧乏」といって哀れみを乞うのだが、インド人の貧しさには降参したようで、あまりの部屋の汚さに「イブラヒム帰るね」といって先にホテルへ戻ってしまった。屋上にでると、クウェート・タワーが見える。屋上にも粗末な小屋があって、そこにはイランからの出稼ぎ労働者がいた。
クウェートのホテルは高いので有名。大体100ドルはする。僕たちが泊まっていたのは、二人で8000円くらいの、ホテルアパートだった。二人で泊まると結構安いなあと喜んでいたが、インド人ご用達の宿泊所は一ヶ月で8000円程度だという。ベッド一個を借りるという感じ。インド人は、タクシーのドライバーや、クウェート人の召使として働いているが、最近はイラク国内の米軍基地で働くのを希望する人も多いらしい。街中に求人の張り紙が張ってある。そちらのほうがいい金になる。イラクは内戦状態で危険なのに、インド人はイラクへ行くのだ。
イラクのドクターが帰るというので、国境まで見送りに行くことにした。イブラヒムはもうしばらくクウェートでゆっくりしたいという。市内から国境までは車で一時間ぐらい。この街道がいわゆる「死のハイウェイ」だ。湾岸戦争では、敗走するイラク軍に向かってアメリカが容赦ない攻撃を加えたところ。対向車線には、任務を終えた米軍の戦車をつんだトレーラーが隊列を組んで走っている。途中の砂漠には湾岸戦争当時に破壊された家屋がいまだに残っている。
国境につくと、イラク国内に運ぶ物資を積んだトラックがたくさん停まっていた。いわゆるハンビーと呼ばれる軍用車もあったので、米軍関係の物資なのだろう。みんなで記念撮影をしていると、ちょうど、クウェート軍と米軍の合同パトロールがやってきた。ジープの中から米兵が
「ここは、軍事基地だ。写真を撮っちゃいけない」
そういって私の写した写真をチェックして、バックにハンビーが写っている写真を消すようにというので消去した。しかし、クウェートの軍人は私のパスポートを持っていってしまい、尋問するというのだ。結局私は、軍ではなくて、国境警察の取調べを受けることになった。しかし、ゲートのところで延々待たされることになった。見張りのクウェート兵の態度が悪い。ともかくえらそうだ。「一体いつまで待たされるのです」と聞くと「私は英語は、わからない」と英語で言うので、アラビア語で話しかけると、「俺は、アラビア語はわからない。俺はインド人だぜ」とわらっている。
正直、むかついた。私たちのドライバーは、インド人だったので、「じゃあ、話してみろ」というと「は、ははは、俺はインド人だ」と英語でドライバーをからかった。この国境は、米軍関係の取引をしているアメリカ人がたまに通過するが、兵隊は彼らには愛想よく振る舞い、クウェートから家具を積んだおんぼろトラックのアラブ人運転手には、さげすむようなまなざしを向ける。アラブ人の顔はこわばっていた。
そういえば、昔読んだ、パレスチナ人の作家、ガッサン・カナファーニの小説『太陽の男たち』を思い出した。これは1963年の作品で、バスラのパレスチナ難民3人がクウェートに密航するときの話。給水車のタンクに隠れて国境を越えようとするのだが、時間は7分。それ以上だと灼熱の太陽が男たちを蒸し焼きにしてしまう。クウェートの入国審査官が、ドライバーをさげすみからかっているうちに時間がかかってしまい、無事に国境を越えたものの、時は遅し。タンクの中のパレスチナ人は死んでしまっていた。
「なぜ、お前たちはタンクの壁をたたかなかったんだ!」というドライバーの叫びでこの物語は終わっている。内戦状態のイラクでパレスチナの難民は迫害され、最近ではバグダッドを追われてシリア国境へと雪崩出ているというから、その当時と状況は変わっていないとつくづく思うのだ。
結局、散々待たされた挙句、ようやくアラブ服を着た警官のところへ連れ出された。警官は丁寧な男だった。「いや、ただ、お決まりごとなので、質問をするだけです。時間はかかりません」といって、冷たい水やお茶やお菓子を振舞ってくれた。私たち、日本人の友人とインド人のタクシードライバー3人が尋問された。イラク人医師は、すでにバスラに到着していたし、イブラヒムはイラク人だったので、どこかに隠れているようだった。
そこでも時間がかかったのは、調書を3枚を手書きで作っていたからだ。クウェートなのに、コピー機がない。なんと手書きでコピーを作っていた。かわいそうなのは、インド人のドライバーで、どこに住んでいるのか、不法滞在でないか調べられた。彼の顔はこわばる一方である。
結局、無事に解放された。バス停まで戻るがイブラヒムがいない。この暑さで干からびてるのではないかと心配したが、ちゃっかりとクウェート人と友達になって、大きな車に乗せてもらっておしゃべりをしていた。
UNHCR(国連高等弁務官事務所)は、シリア、ヨルダンを中心にイラク難民が200万人になったと報告している。宗派対立が激化し、危険で住めなくなったイラクを後にする難民と、その裏側で、危険なイラクで商売をしようと試みる貧しい外国人労働者たち。世界はぐるぐると回っているのだ。
(ガッサン・カナファーニ 1936年生まれ。パレスチナの激動の歴史の中で果敢な自己形成をとげ、パレスチナの相次ぐ悲運を共にすることによって自己の帰属する民衆を描く。1972年7月8日の朝、自動車に仕掛けられたダイナマイトで暗殺される。享年36歳)