荘司和子訳

ピンパーはため息をつくと過ぎていく街へ眼をやりながら、わたしの方へ手をのばし小声で言った、
「タバコもう1本ちょーだい。お願い」
それから彼女もわたしもずっと黙ったままでいた。そしてついにわたしが声を上げた。さっきよりさらに気後れしながら。
「ぼくのところに泊まってもいいよ、でもぼくひとりじゃないんだ」
「いいわ、かまわないでくれていいの。わたしここら辺で降りるから。次のバス停でね」と、彼女は身体を動かした。
「家に帰れないんだったらほんとにうちに泊まっていっていいんだ。友達に君が親戚の子だって言うから。どうってことないさ」
「やめとくわ。わたしなんとかするし。。 いつかまた会おうよ、地球は丸いんだからさ」

バスが速度を落としたとき、わたしは彼女の腕を掴んでいた。ふたりともまばたきもせずに見つめ合った。わたしはまだ彼女の腕を離していないし、もう離しはしないだろう。触れ合っている感触が再び気持ちを高揚させるや最前話されたことはもう忘れていた。

「行ってくれ、誰も降りないから」わたしは運転手に向かって大声を出した。
けれどもバスは道路脇にしばし停まった。降りようとしている乗客が文句を言っている声がする。わたしは申し訳ないことをしたのだと気づいた。それから他の乗客がもう数人しかいなくて、みなわたしに視線を注いでいるのがわかった。けれどもわたしと視線が合うとみな眼をそらした。自分はどうも恥ずべき変なやつになっているらしい。

ピンパーは相変わらず黙っている。バスはそこから急発進するとさらにスピードを増していく。その速さはタイヤがまるで道路に接していないかのようにわたしには感じられた。わたしは最前の感情を抑えようと最後の1本のタバコをとりだした。ところが火をつけるのがやけにむずかしい。ライターを持つ手がぶるぶるふるえているのだ。火がつくと深く煙を吸い込んだ。タバコの先端から火の粉が線を描いて飛び散って行く。それが身体に当って熱かった。後部座席の人にも当たっているのではないかと、謝ろうとして後ろを振り向いたが誰もいなかった。切符切りのバスボーイがひとり笑顔で座っているだけだ。ピンパーは、あれは悪霊のひとつが嘲笑っているのだ、と言う。わたしはぞっとして鳥肌がたちあわてて目をそらした。

ピンパーはさきほどよりもいっそうぴったりと身を寄せてきた。わたしの膝の上で右手をしっかり握り締めている。それからバスがスピードを上げすぎているとしきりにつぶやいた。わたしは何も言わず、ただ彼女の肩をなだめるように抱いていた。バスは疾走している。風が顔に痛いほど叩きつけている。わたしはたばこを指でとってから煙を吐き出し、左手を肩から腰へ下ろしてピンパーをしっかりと抱き寄せた。彼女はずっと黙して語らない。わたしは椅子の背に凭れかかり眼を閉じると願った。さあ、もっと速く走ってくれ、可能な限り速く走ってくれ、地獄なりなんなりと連れて行ってくれ、と。

(完)

1969年スラチャイ21歳のときの作品。1970年刊の短編集『どこへ向かって行くのか』収録。今回は2006年第11刷より翻訳。十代後半バンコクへ上京して美術学校へ行きながら詩や短編を書きはじめたころです。ギターをもつことになるほんの少し前のころのスラチャイ。家がなくて友人の下宿を泊まり歩いたり、王宮前広場で蚊取り線香1本で夜を明かしたりしていたころを髣髴とさせる作品です。約40年前の作品とはいえ、最近のものとあまり変わらないですね、まるで絵を描いているような表現のしかた、巧みさ。(荘司和子)