花筺――高田和子を悼み

      霧たちわたれ 川面に
      見つめ 思い起こすために

1991年から2007年まで 音楽の道をともに歩んで来た 
三味線奏者の高田和子が 7月18日に亡くなった
16年の道行を終えて まだ生きているものから
先立つひとを送り そのひとに贈ることばを ここに書く

1990年 国立劇場での 矢川澄子の詩による『ありのすさびのアリス』の
声のパートが 最初の出会いだが 
次の年Music Today Festival で『風がおもてで呼んでゐる』の演奏依頼が
長い道のはじまりだった
邦楽では 初演者が委嘱した作品を私有する慣習がある
それを知りながら あえて演奏を引き受けたために
彼女はそれまでの仲間と別れて 異なる音楽の道に踏み迷うことになった
最初の共演コンサート「三絃蘭声」には それまでの聴衆は来なかった

闌=技術を越える表現の自由 世阿弥の「闌位」から
声=彼方から耳に達する響き 字義から

その後の数年間 電子音響をはじめ 雅楽や西洋楽器との合奏や 
声明や合唱との共演で 三絃と声だけでなく 箏や古代楽器も演奏してくれた
伝統楽器やその音楽についてまなんだだけでなく
作品の細部 奏法 記譜法についても 相談しながら決めた

三絃弾きうたいとオーケストラのための『鳥も使いか』(1993)は
1993年金沢で初演後 オーストラリア シンガポールの旅公演や 
他のオーケストラの共演もあった

  わたし自身も長い間組織の外で 手本のない道を歩いてきた(高田和子)

この協力関係は 平坦な道ではなかった
それまでの高田和子は 現代音楽作曲家たちの要求する超絶技巧を 
三絃という前近代の楽器で実現することのできた例外的なヴィルトゥオーゾだった
だが いっしょに探求したのは 楽器と伝統をさかのぼり
ありえたかもしれないが じっさいには存在しなかった
音楽の別なありかたを見つけること

20世紀音楽の 神経症的な速度や複雑な運動ではなく
繊細な音色の差異と 
拍節構造のような 外側からの規律ではない 
身体感覚にもとづく時間
モデルの断片を即興的に組み替えながら
他の楽器との関係をその場で創ること

これは 現代邦楽とは逆方向の道
現代音楽の制度からも外れていた
共演はしても 雅楽や声明でもなく 
どのシステム どのジャンルにも入れない音楽

しかも この冒険をつづけながらも
そこだけで閉じてしまわないように
まだ 制度に組み込まれていない 若い作曲家や演奏家をみつけて
それぞれが ちがう場に出ていく時もある
危うい同意のバランスの上で 逃亡しては また惹き付けられる
揺れうごく関係の磁場

2002年

  今年はどうやらわたしにとってふしぎな年まわりのようだ
  人の身に起こり得ることの10年分くらいが
  一度に来てしまったという感じがする
  それは身内の闘病と死
  親しい人の突然の病
  ・・・・・・
  あたりまえに過ごしている日常のなかに
  多くのだいじなことがある ということに
  人は それを失うまで気がつかない
 
  高橋悠治さんの作品『心にとめること』は
  わたしが今までずっと大切にうたってきた歌である
  わたしが心をひかれるのは、次の言葉たちだ
  「わたしは老いるもの、老いをのがれられない」
  「わたしは病むもの、やまいをのがれられない」
  そして
  「親しいものも楽しいことも 変わり 離れてゆく」
  と続く
  まるで今年わたしのまわりで起こった出来事を歌っているかのようだ

彼女は ことあるごとに この歌をうたいたがった 
歌が人を
なにか妖しい運命に引き寄せるようなことは
あってはならない と思いながらも 
彼女のために書いて来たのは
『那須野繚繞』『畝火山』『狐』『影媛の道行』『悲しみをさがすうた』

おなじ2002年 
こちらが突然の病気で ほとんど死にかけて以来
しばらくは 三絃とも遠ざかっていた
毎日のように 電話やメールで 長い対話をつづけていても
共演の企画はなかなか実現しなかった
彼女には この頃 ほとんどしごとがなく
邦楽組織の外にいるために 教職に就くこともできなかった
それは聞いて 知っていた
だが ピアノばかり弾いていて 
もう帰って来ないのではないか と 
あきらめかけていたのは 知らなかった
どこかで まだ時間はあると思っていた

いまの瞬間は すぎていく ひきとめようもなく

2005年 
彼女もやっと大学の講師にもなり
いくらかは演奏の機会もできたようだが
会う機会はますます すくなくなった

その頃のこころみ
ビオレータ・パラの歌を三絃弾き語りにアレンジした
『ありがとういのち』『愛の小舟』『天使のリン』
三絃という楽器を 世界音楽の野に放ち
唄は 日常の声に近づける

かなしみに洗われて
うたは かがやきを増してゆく

彼女のための最後の作品は石垣りんの詩による『おやすみなさい』
2005年11月16日初演

  知らなければ三味線だと思わないかもしれない
  いつもと全然違う声でごく自然にうたっている自分のことも
  とても不思議です
  この曲を聴いた人たちが
  みんな幸せに眠れますように

次は三絃ソロ小曲集を書こうと決めていた
予定タイトルは 花筺
花々を盛った籠としか思っていなかった
能や地唄に先例があり
別れの贈り物 追悼の曲を意味するとは知らなかった

2007年2月に共演でのコンサートを決めたすぐ後に
彼女は入院した いまの医学では治療できない病気で
死ぬと知りながら
入退院のくりかえし ひろがっていく麻痺と頭痛

  普通の人には確率的にまず起こらない事を
  病気でも人生でも一身に引き受ける運命なのかもしれない

最後の演奏は6月はじめ 放送のための録音
2001年に初演してくれた曲 勅使河原宏追悼のための『瞬庵』
その放送の日を待たず 三度目の入院

亡くなる前日 病室
繊細な響きの場所を 糸の上でさぐりあてた あの手も
ふくれあがり 感覚もなく うごきもない
ひびわれ つぶれた水泡に血のにじむ唇
やせ細った腕のくぼみをさすり 呼びかけると
ふっと眼がひらいて 
まばたきもしないで じっと見つめる
そのまなざしの先に こちらの眼をあわせ 見交わした
またたきの合図を送り ほほえもうとしてみた 
静かだった
ことばを失った喉がうごき かすかな声が一度だけ

どのくらいそうしていたのか
眼がゆっくり閉じていった
また明日 と言って 病室を出たが
翌日対面したのは 霊安室の棺台の上
頬に触れると 冷たかった

あれは ほんとうにあったことだろうか
意識のない眼に こちらの思い込みを投射しただけ それとも
助けをもとめてすがりつく 消えかかる炎の弱いかがやきか

後からの疑いや 説明するこころみは
その瞬間にはなかった
いまでも その時の姿勢の記憶から
感覚がよみがえってくる
 
まなざしだけが
ことばもなく 思いもなく
時間のない ほの暗い空間にただよっている

  It is possible that to seem - it is to be
      (Wallace Stevens: Description without Place)
  そう見えることは 存在すること――でありうる