夜の8時ごろ、アンマンの事務所のブザーが鳴ったので、ドアを開けにいくと子どもの声がする。西村陽子が、脳腫瘍の女の子イラフを連れてきた。イラフは4歳の女の子。一年前にがんの治療のためにバクーバからアンマンにやってきた。お父さんと2人で安アパートを借りて暮らしている。子どもの介護に疲れたお父さんは、西村にイラフをあずけて、しばし生き抜きをする。
彼女は、イラフのことを組長と呼んでいる。確かにつるっぱげの女の子は、人相が悪く、頭やら体には7箇所以上の手術の後がある。しぐさも女の子らしくない。ぼくには彼女が何を言っているのかよくわからないが、西村陽子にはよくわかるらしい。彼女の遊びにはコースがあるようだ。まずは積み木。といっても、抗癌剤の箱を積んでいく。ビニール袋に入った薬の箱は、100箱くらい。書棚の取っ手のところにぶら下げてあるので、なんで捨てないのかと気になっていたが、イラフが遊ぶようにおいてあるのだ。
「組長、今度は何をして遊びますか」
「そうだなあ、お医者さんごっこ」
イラフは西村さんの腕をタオルで縛り、血管を捜すそぶりをしている。
「組長、そろそろ、ご飯の時間です」
「まだ、遊ぶ」
「でも組長、今日はチキンですよ」
「おお、それならば、食べよう」
子どもを預けた親父は、申し訳なく思ってか、チキンを買ってくれた。イラフは貧しいからあまりお肉を食べることはないようだが、陽子が明日、アンマンを離れると聞いて奮発してくれたのだ。今日は、何も食べないようにと、親父に釘を刺されたという。
「組長が、そこにいるおなかをすかせた叔父さんも座って一緒に食べるようにといっています」
「かたじけない。ではお言葉に甘えて」
私も一緒にご飯をいただくことにした。
ご飯に飽きると今度は、お絵かき。といっても、イラフのキャンバスは、西村陽子である。サインペンを持ち出すと、西村を捕まえて、腕とか、顔に落書きをするのだ。今度は、ぼくのほうを見て、にやりと笑う。そうは、問屋が卸さない。私は彼女を捕まえて、ペンをうばいとった。
「きゃー」
悲鳴を上げるイラフの顔に眉毛とかを落書きしてやった。
「組長、いかがでしょう?
」西村が手鏡をもて来てくれる。
「キャー」
はしゃぐ組長。
夜も更けてくると、お父さんが迎えに来る。
「組長、お迎えが参りました」
ヨルダンは、ラマダン月を迎えていた。ラマダンは、貧しい人達のことを考えるために、日中はご飯を食べない。しかし、おなかをすかせた輩は、いらいらして、喧嘩をしたり、車をぶつけたりとなかなか大変。仕事にならないと西村陽子はラマダンが始まると同時に日本へ帰って行った。
一方街角には、イラフの巨大看板が建っている。組長が、ランプを持ってにたりと笑っている。キングフセインがんセンターでは、治療費の払えない子どもたちのために、お金を集めようと、特に、ラマダン中の喜捨を呼びかけている。イスラム教徒は資産の2%を喜捨しなくてはならず、ラマダン中に寄付をする人も多い。キングフセインがんセンターは、イスラム協会が認めた寄付先として、大々的に広告をうっているのだ。何人かの子どもの写真を撮ったのだが、イラフの表情がとてもいいので、4種類ある写真のうち2種類にも、彼女がモデルとして採用された。
組長が、どのようなラマダンを過ごしているのか気になった。坂の上の小さなアパートを訪ねる。4畳半ほどの部屋にベッドが2つ並べてあり、イラクから持ってきたスーツケースだけで場所をとり、足の踏み場もない。小さなキッチンがあり、お父さんが、イラフのためにちょっとした料理をしたりしているようだ。床には、イラフのおもちゃやら洋服やら、食べ残しのお皿やらが散乱している。きたない!
イラフのお父さんは、まるで聖人のようにひげを蓄えている。相変わらずお金がないのか、前歯は抜けたままだ。イラフはぐったりとベッドに横になっている。機嫌悪そうに私たちに背を向けて布団をかぶっている。布団を少し持ち上げて私たちのほうをちらちらとみているのだ。眼が合うと、にたりと微笑む。
「組長、街中では、組長の写真が貼られ、ちょっと話題になってますぜ」
新聞にもイラフの写真が出ている。
この狭い空間でもイラフは、コース遊びをこなしていく。ブロック遊び、ボール遊び、ベッドの下にもぐりこんだり、ボールをぶつけたりとおおはしゃぎである。時折、怪鳥のように、ぎゃーと体をこわばらせながら叫ぶ。
お父さんは、いつもお世話になっているから、皆さんにご飯をご馳走したいという。ありがたいのと同時に、こんなところでご飯をご馳走になるのは、とても申し訳ない気がした。翌日、私たちはチキンを買って、一緒に料理をすることにした。ちょうどアンマンに来ていたボランティアの菜穂子さんも誘っていく。昨日よりは少しきれいになっていた。それでも、菜穂子さんは、「きたない!」
お父さんの指示に従って、アラブ料理を作る。6時30分、日が沈むと、いよいよ、イフタール(断食後の夕食)
「組長、お味のほうは?」
組長は、スプーンをとると、ご飯はそっちのけで、むしゃむしゃと菜穂子さんを食べるふりをする。
「組長、それは、人間ですぜ。あまりおいしくないと思いますが」
それでも、組長は楽しそうに、菜穂子さんをたいらげた。その後、味をしめた組長は私の友人を次々に食べていった。
父と子は、もう一年以上も、母に会っていない。ぼくたちは、汚い部屋で暮らすこのお父さんに哀愁を感じずにはいられない。それと同時に、ある種の、欲望がむらむらと沸き起こってくるのだ。それは、掃除したい! という欲望だ。汚い部屋という現実から逃げたいというよりも、掃除したいという正の欲望をこの父と子は与えてくれる。私たちの欲望はともかく、喜捨がたくさん集まって、組長が治療が続けられますように。
ラマダンは、10月10日まで続きます。ラマダン中の募金を希望される方は、
郵便振替口座:00540-2-94945 口座名:日本イラク医療ネット