先日、「ガラスの動物園」というお芝居を見に行った。テネシー・ウイリアムスの古典的なお芝居。高校のときに、クラスメートが演劇部に入っていたのを知らず、文化祭のステージに出てきたので驚いた。高校生とは言えど、本格的なお芝居を見たのは初めてだったのだが、今まで隣に座っていたクラスメートが急にまるで違う人、つまりはすっかり役者になっているのでこれまた驚いたのだ。
今回は、文学座の粟野史浩さんが青年紳士の役をやるという。粟野さんは、永井愛さんの「やわらかい服を着て」というお芝居に、NGOボランティアの役を演じた。役作りのために私の報告会にも来てくれたことがある。
私が、見たのは、30年も前だったが、なんとなくストーリーも覚えていた。なぜだか、青年紳士が、チューインガムを自慢げに噛むシーンを一番よく覚えていた。ローラは、子どものころから足が悪くて、そのことが気になり、自信がもてず過度の内気になってしまい、婚期を逃してしまう。学校では、足につけていた補助具の音を、皆に聞かれたらどうしようといつも不安なのだ。ビジネス学校にいっても、極度に緊張して、適応することができずに一日でやめてしまう。このお芝居が作り出す、ローラの内面の繊細な世界が心地よい。お母さんは、どこにでもいるような、娘の売れ残りを心配し、おせっかいを焼こうとしている。
この間、アンマンに行ったときに、バグダッドからアヤちゃんが検査のためにやってきた。アヤちゃんは、ガンになって右足を付け根のところから切断している。義足をつけて歩いているが、この義足がよくこわれるので、転んだりする。この間は、バグダッドから成績表を持った写真を送ってきてくれた。よく見ると、10点、10点、8点、8点、とまあまあの成績だ。無事に進級できたようである。
今のバグダッドは、宗派対立が激しくなって、こどもたちが町を歩くのも大変だ。誘拐されたり、テロに巻き込まれたり。誘拐されると身代金を要求される。彼女の父はスンナ派、母はシーア派だ。この間までは、イラクでは、彼らのように宗派にかかわらず結婚するものも多かったのに、なぜここまで宗派が対立するのだろうか? そこで早速しらべてみた。
シーア派のイスラム教徒は、アル・フセイン(フサインと表記することも多い)の肖像画を家に飾っていたりする。本来イスラム教では、偶像崇拝を禁じているのだが、シーア派は少し違うようだ。このアル・フセインは、預言者ムハンマッドの孫に当たる。ムハンマッドの死後、イスラム共同体は、誰をその指導者(カリフ)にするかで、もめた。長老の合議制で決めるというのがルールだったが、血筋を主張した人々がシーア派である。彼らは、アル・フセインを担ぎ出して、当時のカリフのウマイヤ家に反旗を翻した。アル・フセインの軍隊はたったの72名だったが、カルバラで4000人の軍隊に囲まれ、まず、水を欲しがった乳飲み子のフセインの息子のアリに矢があたり絶命する。そして、フセインの体にはたくさんの矢が刺さり、首を切られて惨殺される。シーア派の人達は、フセインを特別に崇拝しており、毎年、フセインの殺された日を記念日として、自らの体に鞭を撃ったり、ナイフで額を切りつけて、悲しみを共有するのである。この儀式はアシューラといわれている。シーア派はこの「悲劇」こそが、根本あるのだろう。
このフセインがシーア派に惨殺されたと解釈すれば、話は根深いが、当時からカルバラの悲劇は、宗派対立というよりは、部族間の覇権争いのようなところがあった。フセインの父のアリは、同じシーア派内部から暗殺されているし、暗殺や、惨殺の繰り返しが歴史なのだろう。今のイラクの状況そのものかもしれない。復讐、復讐の繰り返し。どこに解決の糸口があるのか、私には結局よくわからない。
アヤちゃんが、バグダッドから無事にアンマンに着いたというので早速会いに行く。片足でぴょンぴょンとはねながら、うまくバランスをとって出迎えてくれるのだ。ヨルダンに住み着いているイラク人の娘、バスナも様子をみにきた。この二人はとても仲良しだ。バスナは、アヤちゃんの義足が気になって仕方がない。そのとき廊下で猫がミャーオとないた。猫だといって二人は走って外に出る。アヤのスピードはバスナに決して負けてない。でも、外には猫はいなかった。近所の子どもが持っていた携帯電話の着信の音だったのだ。二人は顔を見合わせてげらげら笑っていた。
二人はさらにはしゃいで、アパートのベランダから身を乗り出すので、バランスを崩して落ちはしないかとハラハラする。バスナがベランダから身を乗り出すと、片足がない分、上半身に重心が偏っているから簡単におちてしまう。前もいすから転んで骨をおったことがあったからだ。
バグダッドからの旅は、いつも大変である。前回は、家族みんなで出てこようとしたが、ヨルダンは、アヤと父親しか入国を認めず、乳飲み子を連れた母は、一晩国境のモスクに身を寄せて翌朝バグダッドに戻らなければならなかった。今回は、2人できたのだが、タクシーの運転手が入国できず、ヨルダン側で別のタクシーに乗ったためにさらに100ドル払わなければいけなかった。
お父さんは、アヤがガンだとわかったときの話をしてくれた。足を切断しなければいけないといわれたときは、目の前が真っ白になり、寝込んでしまった。でも、命が助かったので、神に感謝している。イラクには、ウェディングドレスが飾ってあるお店が多い。買い物に連れて行ったりすると、彼女はそういったドレスを眺めて、「私は、大きくなったら結婚できるの?」と聞いてくる。「大丈夫だよ」というと、アヤはにっこり微笑むのだ。しかし、父はそのたびに、責任を感じてしまうという。アヤは、とても明るい女の子だ。
彼女がバグダッドに去る夜、アパートの下の部屋では、バスナの家に私たち日本人も集まってラマダンの明けのイフタールを食べながら大騒ぎしていた。アヤは、そのグループには加わらずに、父に手をつないでもらって足を引きずりながら、さびしそうにアンマンを去っていった。
予想外の出費のためにお金を使い切ってしまった。これからダマスカスに抜けて、そこからだと安いバスがあるそうだ。ヨルダン政府は、特別な理由がない限りイラク人にビザを出さなくなったので、ヨルダン―バグダッド間を行き来する車はほとんどなく、法外な値段を払わなければいけないからだ。ラマダンも中間地点にさしあたり、夜空には満月がけらけらと高笑いしている。これから、長くて危険な旅が始まるのだ。無事にバグダッドまでたどり着けることを祈りつつ。
「ガラスの動物園」のローラを見ていて、アヤのことを思い出した。
アヤは、明るい女の子だ。だから僕たちは、彼女のハンディキャップをほとんど感じることがない。だが、今までは、小さかったけど、大きくなってくると自分の体のことを気にするかもしれない。周囲の目も厳しくなるかもしれない。そしてローラのように、内気になってしまうかもしれない。
ふと、思った。