9月に帰国して、あっという間に12月がきてしまった。12月といえば、昨年の入院を思い出す。11月26日の公演が終わってから腎臓腎炎と腎臓結石でダウンして、インドネシアで入院する破目になってしまった。インドネシアには計3回、通算6年3ヶ月長期滞在したけれど、大病をしたのはこの時が初めてである。もともと体が弱い方なので、無理をしないよう用心して過ごしていたせいか、マラリアやチフスやデング熱が流行して、留学生の過半数が入院したときも、元気にしていたのだ。
結石で猛烈な痛みを感じて、排尿困難、七転八倒したのは、11月30日から12月1日にかけての深夜のことだった。その夜はビデオ撮りをしていて、0時過ぎに帰宅したところで、急に痛みが襲ってきたのだった。
けれど、日記を読み直してみると、10月20日頃から背中から腰のあたりが痛いとしきりに書いてある。そういえばそうだった。昨年は10月24、25日がイスラムの断食明けの大祭で、世間は10月21日(土)から月末まで連休になっていた。その頃はまさかそんな大層な病気だとは思わず、それでも腰が凝ってしんどいと思って、ひたすら指圧器具(留学には必ず日本から持参する中山式快癒器)でコリをほぐしていた。
ジャワでは、ときどき鍼灸治療に通っていた。先生は中国系の人である。断食明け大祭の翌日には早くも営業するというので、こうなるとは知らず以前予約を入れておいたのだが、このときに先生から、「あなたが痛いというところはちょうど腎臓のところだよ。ここは単に疲れただけでも痛くなるけど、腎臓の検査をしたほうがいいかも知れない。今度もし痛みを感じたら、すぐに病院に行きなさい。」と言われていた。
それから1ヶ月、指圧器具でそれなりに乗り切りながら、知人に検査をどこでしようかなどと聞いたりはしていても実行に移さずにいた時に、猛烈な痛みがやってきたのだった。翌朝6時半頃、すぐに最寄の女医さんの家に行く。インドネシアでは、病院勤めのお医者さんが、朝夕は自宅で開業しているのだ。診療だけなら無料で、薬が出されると薬代を払う。女医さんからは、尿検査と血液検査とエコー検査の結果を持ってきなさいということで、とりあえずの薬を処方してもらい、Budi Sehatという総合検査所のような施設に紹介状を書いてもらう。
Budi Sehatのエコー検査の結果は卵巣炎。私としては鍼灸の先生の言葉が頭にあったので、腎臓は? 腎臓は? と繰り返し聞いたのだが、異常なしという。私にはエコー写真を読み取る能力はないが、検査判定はいかにも怪しい。検査では1つ1つの臓器のエコーを撮ったのだが、判定までの論法が「○○異常なし、○○異常なし、○○異常なし、腎臓異常なし、よって卵巣炎」というもので、しかも卵巣になんらかの異状が見られるといった特記が一切ない。消去法で卵巣炎と判定したのではなかろうか...という感じである。
さらには検査料金が42万ルピア(日本円にして6000円くらい)とえらく高い。女医さんの話では高くても30万ルピアくらいということだったのに。この結果を持って女医さんのところに行くと、女医さんもその料金に驚く。たぶん検査器械が最新のものだろうということだった。
このBudi Sehatの判定にしたがって治療するのも不安だし、またせっかく海外保険にも入っているので、ジャカルタで日本人のお医者さんに診てもらったほうがいいということになって、女医さんに紹介状を書いてもらった。インドネシアでは医療に結構なお金がかかる。病院で入院するには前金が必要で、2500万ルピアくらい用意しないと駄目だと言う。(しかしあらゆる病院がそうかどうかは私もまだ知らない。)2500万ルピアというと35万円近い。一杯のミー・アヤム(ラーメン)が2500ルピアで食べられるこの国では、大した金額である。当時の私は公演の支払いが終わった直後で、しかも助成金は分割払い。ということで、インドネシアでの口座の預金残高は、とてもとても前金の額に満たなかった。治療を受けるのはお金持ちのすることなんだとしみじみ悟る。
この日本人のお医者さんがいるジャカルタの病院は、幸いにも海外保険のキャッシュレスサービスがきくところだった。そこで再検査をしてもらった結果が最初に書いた腎臓腎炎と腎臓結石なのだった。一応卵巣炎という診断だったので、念のため産婦人科の検査も受けたのだが、卵巣炎ではありえないと断言される。こういうわけで、いくら立派なエコー器機を導入していても、診断する医者のレベルが低ければ病気を見つけることはできない、とつくづく痛感する。
けっきょくジャカルタで入院し、退院した後はソロの自宅で静養していたのだが、全然良くならない。足がものすごくむくんで、足を床につけただけで、足裏の腎臓のツボが痛む。いろんな物が不足してきて、とうとう大晦日の昼頃に意を決して買い物に出たところ、スーパーで知人にばったりと出会う。その人の知り合いに、念を飛ばして「見る」ことができる人(インドネシア人)がいるという。その人に私の状態を一度見てもらってあげようと言ってくれて、携帯電話のカメラで私の写真を撮り(写真がある方がよくわかるらしい、カメラつき携帯というのはこういうときに便利!)、その人に見せて聞いてくれたところ、腎臓が少し濁っているけれど、足のマッサージをすればよくなるとのこと。私はまだ外出できないので、足のマッサージに私の家まで来てあげようと言ってくれたのだった。
そして年が明けてからRさんが足のマッサージに来てくれたのだが、初回からものすごく症状が改善した。マッサージは悲鳴を上げるくらい痛かったのに、そのあと足裏のツボがずきずきするような痛みが取れて、ともかく歩き回れるようになった。このマッサージは別に何の怪しいものでもない。足の裏や甲の特定の部位をほぐすような感じである。この人(やその「見る」ことのできる人たちの団体)はお金を受け取らない。自分たちは医者ではないからだと言っているけれど、また営利行為になってしまうと、純粋な気持ちが消えて病気が治せなくなるのだろう。その後3回ほど来てくれて、その時に食事指導も受け、日本に一時帰国(別プロジェクトがあったので)できるまでに、体力が回復した。
こんなことがあると、インドネシアの人々が民間の治療を信用する気持ちがよく分かる。医療には高額なお金がかかるくせに、医者のレベルは高いとは言いがたい。私が入院していたときも、隣のベッドのおばさんは、治療費が5000万ルピア(約70万円)に達したのにまだ直らない、もう支払えないから退院する!と言って退院した。
そんな大金が払えない庶民は、民間の治療に助けを求めるしかない。けれど、そういう治療者の中には、超音波エコーを使わずとも症状を「見る」ことができる人がいて、そういう人たちも人を治せている。こういうことができる人をインドネシアではドゥクン(呪術師、ただし否定的に使われるので自称はしない)ともいったりするけれど、Rさんは自分たちはドゥクンではなく、単に体のメタボリズムを整えているだけなのだと言う。タイトルでは透視という単語を使ったけれど、Rさんの「見る」力を透視と呼ぶのは正確ではないかも知れない。とりあえず、タイトルとして端的な表現を使っただけである。
今度インドネシアで病気になったら、もちろん病院で検査もするけれど、やはり「見る」ことのできる人に見てもらって、検査結果の裏づけを取りたいと、大真面目に思う。