しもた屋之噺(73)

ここ数日、朝晩の冷えこみは本当に酷く、零度どころではありません。今朝ブソッティ宅での打合せが終わり帰宅すると、この寒さにやられたのでしょう、いつも来ていたオレンジ色の口ばしの愛らしい黒い鳥が、庭先で硬くなって息絶えていました。ずっとこの庭に遊びにきてくれていたし、猫やネズミに穿られては忍びないと、出来るだけ深く庭の端に穴を掘って埋めました。いつもつがいで来ていたので、片割れがどうしているか気になって空を見上げてみましたが、雲ひとつない澄んだ青空が続くばかりでした。

帰りしな、思いがけなくブソッティが、「これはうちに残っている数少ないトーノ・ザンカナーロのリトグラフだ。君にプレゼントしよう」と言って、鉛筆で、「ヨーイチに。2007年12月29日友なるシルヴァーノより」と書き付けてくれました。1967年のパドヴァの街角を描いたリトグラフで、左手に小さなアーケードのある建物が描かれています。「ここには、その昔子供のころ通った恐いピアノ教師の家があってね。あの頃は厭で仕方がなかったんだ」と笑いました。

来月、東京からミラノに戻る道中を共にする2歳半になる息子が、「ドンキホーテ」のバレーと「アルジェのイタリア女」が好きでね、と話すと、ブソッティも「ああパッパターチ、ムスタファね!」とおどけてみせて、「子供のころ大好きだったな。あれは楽しいものね」、と大喜びしました。「その昔、まだ子供だったころ、子供向けの移動オペラ劇場みたいなものがあってね。今から思えば、簡略なものだったろうけれど、本当によく見に行ったな。すごくわくわくしてね」。傍らで話を聞いていたロッコも、「ドンキホーテ」はいいじゃない、もっと色々見せたらいい、と声を弾ませました。

実は内心、この様子に少しほっとしていました。その少し前まで、ブソッティの演奏スタイルについて話していて、「旋律が好きなんだよ。旋律のない音楽が嫌いでね。現代音楽はたいてい旋律がないから嫌いなんだ。自分の音楽も現代音楽じゃないと思っている。旋律があるからね。どんなにプッチーニが好きか、よく知っているだろう」という話から脱線して、「ブーレーズの音楽をみんな勘違いしている。彼の音楽の原点もやっぱり劇場なんだよ。有名になるずっと前、ピエールは素晴らしい役者たちの出る演劇の伴奏でオンドマルトノを弾いていたんだ。そして、その劇団と一緒に各地を周っていたんだからね。その体験から彼の音楽がどんどん広がっていった、ということを忘れてはいけないと思う。彼の音楽の原点を履き違えているものばかりだ」と言ったあと、「シュトックハウゼンだって同じだ。彼と劇場だってどうやっても切り離すことはできないだろう」、と言った途端、みるみるうちに目がうるんで、言葉に詰まってしまいました。

今から10日ほど前、友人の建築家宅で、クリスマスのホームコンサートがありました。毎年クリスマスに小説家や詩人などを招いて、「クリスマスのお話」をしてもらう慣わしですが、今年はブソッティを招いて、彼の曲とお話を一緒にたのしみました。
「今日はクリスマスにちなんだお話をするつもりでしたが、どうしても話さずにはいられない出来事がありました。親しい友人で、恩人でもあるシュトックハウゼンの死です」。
客席には、ルチアーナ・ペスタロッツァやミンマ・グアストーニなど、その昔リコルディを切り盛りしていた錚々たる女性陣が顔を揃えていましたが、ブソッティがこう切り出すと、客席から長いため息が洩れました。

「フルートとピアノためのクープル(一対)という曲を聴いていただきましたが、これ作品など特にシュトックハウゼンと切っても切れない縁があるんです。最初ダルムシュタットの夏期講習会で演奏されたのですが、当時講習会を仕切っていたのがシュトックハウゼンでした。その頃、自分はフィレンツェで、五線紙の切れ端に模様のような落書きを書いたりしていたのですが、それを見た友人が、ダルムシュタットに送ってみたらどうかと話してくれたのです。夢のような話でしたが、でも郵便局から楽譜を送ってみて暫くすると、思いがけなくシュトックハウゼンから、ずいぶん厳しい返事が届きました。<貴君はこの楽譜が何を意味するのか、何をしたいのか説明もせずに、ただ唐突に送りつけてきたわけだが、もし音楽というものを本当に知りたいなら、学費を出すから来るがよい>。当時、ダルムシュタットに行き勉強するお金なんてどこにもありませんでしたから、奨学生として勉強するのが唯一の可能性でした・・・。そこから思いがけなく自分の音楽人生が始まったのです。ですからシュトックハウゼンに負うところが沢山あるのです。シュトックハウゼンの死を最初に伝えきいたとき、自分の耳を疑いました。初めてニュースを聞いてから、詳しい状況を知るまで3日かかりましたが、死が真実だったと知った時は、丸一日何も考えられませんでした。ケージが死んだときは、余りの悲しみに3日3晩涙が止まりませんでした。あれから自分も歳を取り、今回もう涙は涸れてしまっていましたが、悲しみの深さは変わりません」。

人を喜ばせるのが好きなブソッティは、少し場を盛り上げようと、こんな話もしてくれました。
「ところで、クープルを何度も演奏してくれた素晴らしいフルーティスト、今は亡きセヴィリーノ・ガッゼッローニの愉快な逸話をご紹介しましょう。セヴェリーノがクープルを録音してくれたのですが、今お聴き頂いたように、この曲は最初に独奏フルートの長音で始まりますね。セヴェリーノは本当に素晴らしいフルーティストで、それはもう寸分の揺れもなく最初の音を吹いてくれました。ところが大変残念なことに、出来あがったレコードを聴きましたら最初の1音がありません。詳しく話を聞いてみましたら、実は余りに完璧な長音だったため、録音テスト用の信号音と勘違いして編集の際に消されてしまったということです」。

「次に聴いていただいた<友人のための音楽>というピアノ曲のお話もしましょう。わたしは裕福な家庭に育ったわけではありません。その反対だったと言ってよいと思います。父はフィレンツェの市役所で登記係をしていて、五線紙一枚手に入れるのにも苦労しました。そんな中、フィレンツェの音楽院で音楽を学び始めたわけですが、そこで当時、どうしようもない、とんでもない、と言われていた教師二人と親しく交流するようになりました。その一人が和声の××××(名前忘却)で、もう一人が作曲のルイジ・ダルラピッコラでした。ダルラピッコラは当時家庭の事情で、父の処に足繁く通っては登記の書換えなどしていたため、そのうち二人はクリスマス・カードなど交換するほど親しくなりました。父が手書きの美しいカードを贈ると、ダルラピッコラは手書きの五線に音列など書いたカードを返してくれました。そうして、いつしかわたしも音列に親しんでいったのです。当時は誰もが貧しくて録音など誰も持っていませんでした。ですから、夜な夜なダルラピッコラのところに集まり、彼の持っている録音に黙って耳をじっと傾けたのです。<友人のための音楽>の友人とは、一緒に音楽に耳を傾けた仲間たちのことなのです」。
とても温かい拍手が客席から沸きあがりました。素敵なクリスマスのお話をどうも有難う、そんな気持ちがこもった拍手です。

「ところで、今朝は行きつけのパン屋さんで、パパですかって」。
ブソッティがロッコのお父さんと勘違いされたと言って、大笑いしました。どことなく顔つきも似ている上に、二人は何度も声色と話し方の癖がよく似ていて、電話でも勘違いしたくらいですから、無理もない話です。
「長年一緒に暮らしていると、しゃべり方も似てくるんだ」。
「それで何て答えたんだい、シルヴァーノ」。
「もうパパって呼ばれるのは馴れっこだからね」。

「じゃあ今度会うのは、もう東京か。不思議なもので、何だかあっという間だ。もうすぐだけど、良いお年を迎えるんだよ。奥さんとあの可愛い坊ちゃんによろしくね」。

(12月29日ミラノにて)