外から見たジャワ王家~ジャカルタでのアンゴロ・カセ

アンゴロ・カセAnggara Kasihというのは、ジャワ暦「クリウォンの火曜日」のことである。ジャワでは、月曜日から日曜日までの7曜暦に5曜暦を組み合わせ、35日で一巡りする暦を生活の中で使っている。クリウォンの火曜日というのは神聖な日とされていて、スラカルタ宮廷ではこの日だけ「ブドヨ・クタワン」と呼ばれる、毎年の王の即位記念日にしか上演されない神聖な舞踊を練習するし、またジャワ神秘主義を信じる人々は、その前夜に瞑想することが多い。

そんなアンゴロ・カセの集まりがジャカルタでも行われていて、私も昨年12月3日(月)夜に招待されて出席した。私は昨年9月6日には日本に帰国していたのだが、11月末にこの1年間もらっていた助成金の報告大会がフィリピンであり、ついでにインドネシアにも足を伸ばしていたのである。今回はこのアンゴロ・カセのことについて書くことにする。

ジャカルタでのアンゴロ・カセの集まりは、昨年1月から観光文化省の至高神への信仰局(Direktrat Kepercayaan Terhadap Tuhan Yang Maha Esa)がタマン・ミニ公園と協力して始めたもので、この日で9回目であった。同公園内のサソノ・アディ・ロソという建物で、アンゴロ・カセの前夜に行われる。毎回ゲスト・スピーカーを招き、質疑応答がある。信仰局としては、意見の異なるさまざまな団体の人たちが直接意見を戦わせる場を設けることを目的としているということだった。先鋭的な意見の人たちも、反対派と直接意見交換することで、その先鋭さを自覚することができ、またお互いに歩み寄れる局面を見出すことができると考えている、という。私は知り合いの新聞記者にここで出会ったけれど、彼はこの集まりをとても評価していて、毎回出席しているということだった。信仰局に登録されている団体には毎回案内がいくが、それ以外の人も自由に参加してよいということだった。私は信仰局長から直接招待メールをもらって出席した。

ちなみにこの信仰局というのは、ジャワ神秘主義などを始めとして、宗教に当てはまらない各地域の土着の「信仰」を扱う部門である。インドネシアでは「信仰」と「宗教」は区別されていて、「宗教」とは、イスラム教、カトリック教、プロテスタント教、仏教、ヒンズー教の5大公認宗教と、それに最近新しく公認された孔子教だけを指し、これらは宗教省の管轄下にある。

催しの進行は次の通りだった。この日は夜8時40分頃から始まり、まず全員起立して国歌「インドネシア・ラヤ」をアカペラで斉唱し、続いてパンチャシラ(建国5原則)を唱える。そしてタマン・ミニの所長の挨拶、信仰局長の挨拶のあと、9時20分頃から歌手によるキドゥン(詩)の朗詠とカチャピ(琴)演奏があって、9時半頃からゲスト・スピーカーの話が始まった。そして0時の閉会前に部屋の電気を消し、キドゥンの朗詠が響く中で黙祷したあと、カチャピの演奏で退場となった。

この日のゲストスピーカーは、スラカルタ王家のラトゥ・ワンダンサリ氏(グスティ・ムルティア王女のこと)と、メンパワ王家の王妃の2人だった。ムルティア王女はパク・ブウォノ12世の王女で、現13世(ハンガベイ王子)の同母妹に当たる。舞踊に秀で、スラカルタ王家の舞踊音楽部門を牽引してきた中心人物である。この日王女は王宮を構成する各建造物の象徴的意味について説明した。

けれどムルティア王女の講演は、レジメを読む以外は全部ジャワ語で、しかも建造物についての話なのに図面も写真スライドも全然なく(会場にはわざわざプロジェクターなど機材一式が用意されていたのに)、私にはとても残念なものだった。それはまるで、スラカルタ宮廷の中でアブディ・ダレム(家臣)たちだけに向かって話しているような感じで、スラカルタ宮廷のことを知らない人にも理解してもらいたいという姿勢が希薄に見えたからだった。

王女は最初に「ここにはジャワ人だけしかいないだろうから」と前置きしてジャワ語を使ったけれど、このアンゴロ・カセはジャワ人だけの集いではない。それは全員で国歌を斉唱し、パンチャシラを唱えたことからも明らかだ。これは「インドネシア人」の集まりなのだと主催者が強調しているのである。そうであればやはりインドネシア語を使うべきだし、逆にそんな場でジャワ語を使えば、共通の言語で話すつもりはないと、一方的に態度を閉ざしているように見えてしまう。

さらに写真もなければ、スラカルタ王宮の建造物がどんなものか、ほとんどの参加者は想像することができまい。想像できるのは、宮廷で生まれ育った自分や宮廷に始終出入りしている人だけである、ということに王女は思い至っていないようだった。もっともそれ以前の問題として、たとえ写真があったとしても王女の話は理解しづらいものだった。それは「○○という門には××という意味がこめられています」という説明が延々と続くだけで、なぜそんな意味づけがされるようになったのか、つまり王宮設計のコンセプトは何だったのかという大枠が全然見えてこないからだった。実際、質疑応答でも「今の説明にはどういう意味があるのか」と質問した人がいたくらいである。

この質問には私も驚いてしまった。スラカルタでは、グスティ(王子・王女)に面と向かってそんな失礼なことを言う人はいない。他にも、ムルティア王女は13世ハンガベイ王子の正統性にも言及したのだが(スラカルタ王家では現在13世を名乗る王子が2人いて、後継者争いは決着していない)、会場からはその後継者争いを批判する声が出たし、また当時明るみに出たばかりの、王家ゆかりの博物館の所蔵品贋物事件について質問も出た。王家(の人)に対してこんなに自由にものが言える雰囲気というのはスラカルタでは考えられないから、私はこの集まりに目を開かれる思いだった。

私自身は外国人のはずなのに、スラカルタに長くいれば、やはりジャワ王宮を頂点としたジャワ人の文化観の中に取り込まれてしまい、ジャワ人と同じようなものの見方をしてしまいがちになる。けれどジャカルタという異文化の中でジャワ宮廷を眺めてみると、そのジャワ世界に閉じこもろうとする閉鎖性や、対外的にジャワ宮廷をアピールする意志の弱さというのが見えてくる。信仰局長は、実はスラカルタ宮廷ともつながりがあると同時に、私の研究内容についてもよく知ってくれている。だからこそ私をこの集まりに誘ってくれたのだろう。ジャワ宮廷というものを外から眺めてごらんということだったのだろう。

後日知ったのだが、信仰局ではこの催しに対する予算はまだついていないらしい。信仰局長が音頭を取って始まり、信仰局とタマン・ミニ公園から人手は出るものの、運営は参加者からの寄付金で賄われているということだった。道理で、関係者の夕食弁当がマクドナルド、それもチキン1個と御飯、炭酸ジュースという一番安いセットだけだったはずだ。局長の弁当もまったく同じだった。