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トーチ・ソングと呼ばれる音楽ジャンルがある。トーチtorchは「たいまつ」だが、carry a torchといえば「恋の炎を燃やす」という意味になる。ただし、たいまつを高く掲げても相手には見えないということだろう、恋は恋でも「片想い」の恋を指す。トーチ・ソングはだから「悲恋の歌」である。そして、トーチ・ソングを得意とする歌い手をトーチ・シンガーという。トーチ・シンガーには、男の歌手は含まれない。
ヘレン・モーガンがポピュラー・ミュージックの歴史に名を残しているのはもちろん複数の理由あってのことだが、その一番のものはやはりトーチ・シンガーであったことにある。というより、トーチ・シンガーという区分はヘレン・モーガンとともに生まれたといっていいかもしれない。それも、ただ単にトーチ・ソングを多く持ち歌としたという以上に、トーチ・ソングはまた彼女自身の一生を映す鏡であったという意味でそうなのである。
ヘレン・モーガンはカナダの生まれだ。1900年トロント、19世紀の最後の年に彼女は生をうけた。
光が鮮やかであればあるほど影の部分が濃いのがスターダムにのぼりつめた人間にしばしば見られる特徴だが、彼女の場合もお涙頂戴の三文小説を地で行くがごとき人生だった。その発端は父親にある。父親のトムは鉄道員だったが、のんだくれで、どうしようもない怠け者だったらしい。やがてヘレンの母親となるルルが妊娠したことを告げたとき、トムはすぐさま行方をくらました。子どもができれば、家族を養う負担が増える。負担の増加に反比例して、自由は奪われる。彼はそれを嫌がって、自分の家から逃げ出したのだ。
先の見通しが真っ暗になったルルは、職を探した。見つかったのは、鉄道の食堂の仕事だった。夫のトムが勤務する会社だったのか、つまりは夫の仕事が縁になってひろわれたのかどうかは、わからない。何がどうあろうとも、働いて生活費を稼ぐしかなかった。
勤務は朝6時から8時間。毎日仕事に通い、臨月が来ると1日だけ休みをとって自力でヘレンを産み落とした。産休などというものはむろんなく、その翌日からはまた仕事に戻った。生まれたばかりのヘレンはバスケットに入れて連れていき、世話をした。
5年後、トムが突然にまいもどり、ルルに復縁を求めた。他人を疑うことを知らないルルは承諾し、アメリカはイリノイ州へともに移り住んだ。小さな家を建てて住んだと伝えられるが、その費用をどう工面したのかは不明である。
定職について真面目に働くというトムの言葉を信じたルルだったが、そうはいかなかった。それから8年後、きまった職はなく、酒もやめられなかったトムは再度不意に姿を消した。
ルルはまた職探しに出た。工場勤務を経て落ち着いたのは、やはり鉄道の食堂の仕事だった。12歳になったヘレンも、じきに同じ食堂で働き始めた。
食堂で働く毎日は、ヘレンに金銭以上のものを提供した。客たちから可愛がられ、雑多な出身地の彼らから歌を教わることもしばしばだった。歌うことが大好きだった彼女は、歌を覚えると食堂で働く人たちに歌って披露し、彼らを楽しませた。
鉄道で働く女性を取材して歩いていたジャーナリストがルルとヘレンに出会ったのは、まさにその頃だった。ジャーナリストはヘレンにモントリオールのクラブの仕事を世話し、ヘレンはすぐにルルとともにモントリオールに移住した。
歌手ヘレン・モーガンのキャリアは、このときにスタートした。
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「美貌」に憧れない女性は皆無だろう。いや、美貌なんてただの幻想と考える女性が稀にいるかもしれない。しかしだ、そういう考えの持ち主であっても、美貌に憧れる女性が世の大半を占めることには同意するだろう。化粧品産業の隆盛やダイエット商品の人気がそれを証明している。
ヘレン・モーガンがその一生を通じて武器としたものも、まさにその「美貌」だった。まだ12歳で鉄道の食堂で働いていた頃から、彼女の美貌はまぎれもない武器だった。図抜けて可愛くなかったら、客たちが好んで自分の知っている歌を教えることなどなかったろう。取材で訪れたジャーナリストが彼女に注目したのも、その美貌抜きには考えられないはずだ。
モントリオールでの最初の仕事は、たいした成果は生まなかった。なんだかんだいっても場所はナイト・クラブである。天性の才に恵まれた少女であっても、そう大きな称賛が集まるはずもない。
ヘレンとルルはじきにアメリカに戻ることを余儀なくされ、シカゴに移った。なぜ、シカゴだったのか。理由は1つしかないだろう。1910年代、シカゴはアメリカ合衆国中でも最も発展著しい都市だった。シカゴなら仕事があるだろう......少女の域にとどまるヘレンを抱えたルルは、そう考えたに違いない。
シカゴがアメリカ中で最も活気のある都市になるのは、1910年代後半からである。ヘレンの属したショー・ビジネスの面でいえば、1917年に南部ニュー・オーリンズの歓楽街ストーリーヴィルが閉鎖されたのをきっかけに、黒人ブルースマンとジャズマンが大量にシカゴに移った。彼らを迎えたのは、シカゴを本拠とするギャングスターたちだった。
ヘレンがシカゴに入ったのは、まさにそのシカゴがアメリカ最大の歓楽都市となる時期だった。シカゴに移ったヘレンはルルと二人の生活の家計を助けるために食品工場などに職を得、働いた。しかし、単純な労働には不向きで、片っ端からクビになった。
その一方で、ヘレンは確実に成長していた。人間としての成長ではない。あえていえば、人類としての成長である。そう、彼女はとてつもなく美しく成長したのだった。
1918年、ヘレンはイリノイ州の美人コンテストに応募した。自活を求めるルルの希望に応えてゼラチンやクラッカジャック、電話会社などの職についたが、ことごとく失敗していた。だからこその、コンテストへの応募だった。
ヘレンは勝った。ミス・イリノイに選ばれたのだ。このときから、彼女の新しい人生が始まった。
※参照=CD『More Than You Know/Ruth Etting & Helen Morgan』
The HELEN MORGAN Page