しもた屋之噺(74)

リハーサルが終わり、ボローニャ市立劇場脇の安宿に戻ってきました。一週間前の今頃、まだ東京でブソッティと一緒に演奏会をしていたのが信じられません。大学街らしく、ボローニャは夜の帳が降りても若者たちの活気に溢れて、街を行き交う人の表情も活き活きしています。もう何年も通っているのに、未だ方向感覚がつかめない、不思議な街ですが、その昔、まだイタリアに住み始める前に来たことがあって、夜、街に巡らされたアーケードを歩きながら、ショーウィンドウの美しさにびっくりしたのを覚えています。

大学の3年生だった頃、シエナで作曲の夏期講習を受講したとき、ドナトーニの助手を務めていたマニャネンシがボローニャ出身で、当時知合った作曲家たちがボローニャに住んでいて、この街との付合いが始まりました。こうして現在仕事に呼んでくれているのも、結局は当時知合った作曲家たちで、思えば随分長く世話になっているものです。

今月、折につけ繰り返し思い出していたのは、ブーメランのように、目に見えないほど遠くに投げたものが、長い時間を経て手元へ戻ってくる感覚です。

大学に入学後すぐに桐朋の当時の別館ホールで演奏した作品がブソッティの「3人で」で、演劇科の女優3人が30分ほどあえぎ続けて頂点を迎える構成でした。あれから何年か、作曲や演奏科の友人たちと、学内、学外で色々な作品を演奏しましたが、まさかブソッティ本人と一緒に同じ場所で、同じ仲間と演奏をすることになるとは夢にも思いませんでした。今回10年ぶりに再会し、当時の仲間と久しぶりに練習を始めると、不思議に時間の隔たりなど、たちまち消えてしまうのです。自分はあれから変っていないのかと考え込んでしまうほど、自然に練習ができました。違うのは、一回り以上も若い学生さんたちが、とても誠実に一緒に演奏してくれたことで、当時自分たちより若い演奏者はいませんでしたから。

そうして練習が終わると、昔通った小料理屋で昔と同じ定食とモツ煮込みを熱燗で流し込み、恐らく同じような会話をし、同じように電車に乗って帰りました。それこそブソッティの楽譜を借りるため足繁く通った桐朋の図書館で司書だったTさんや、作曲のM先生やY先生が何度も顔を出して下さったのも嬉しく、こんな風に、よく分からぬまま手探りで過ごしていた時間の本質を知りたくて、思わず皆が同じ場所に戻ってきた、今回の企画はそんなところがありました。ブソッティと触れ合う中で、溜まっていたわだかまりのようなものが、ほんの少し解けた気もします。

同時にブソッティを通して、たくさんの新しい出会いもありました。マドリガルを歌ってくださった皆さんとの練習は、最初から最後まで、とても気持ちのよいもので、本番もブソッティの魅力を、余すところなく伝えてくださいましたし、演奏会に際してお世話になった、桐朋や明治学院でお世話になった先生方や裏方の皆さん、イタリア文化会館の職員の皆さん、ブソッティの訪日の意味を理解して下さり、無理に時間を作りお手伝いくださった録音技師の皆さん、広報をお手伝いくださった皆さんにも何とお礼を申し上げてよいか。

さて、桐朋の歓迎会で、ブソッティは学生が寄せ書きした色紙のお返しに、自身も色紙を贈りました。適宜金銀の和紙が散らされて薄い染みに見える色紙で、一緒に色鉛筆とサインペンを渡されたブソッティは、まず染みを色鉛筆で一つずつ丸く塗りつぶしてゆき、色とりどりの丸が散らされると、上方の丸二つを選び瞼を縁取り、少し下の丸の周りに唇を書いて、それぞれの丸を線で繋いで、キュビズムのアルルカンの衣装のような輪郭を与えてゆきました。アルルカンが手をからげて踊る姿になったところで、踊りと学校名を漢字で書きたいと言うことで、「踊」と「桐朋」という文字を書き入れて、絵を完成させました。

このちょっとした出来事は彼のアプローチを理解する上で、とても勉強になりました。偶然の閃きを切掛けに、その閃きを後天的に意味づけし具現化するため、周りに事象を加筆してゆくうち、自然と形が生まれてくる。まるでヨーロッパ人たちが、前置詞や冠詞まで感覚的に話し、少し間を開けて文法的に見合う言葉で埋めて、前述した前置詞や冠詞を正当化してゆくのに似ていますが、普通「私はかく思いき、ついては何某」、と指針を明快にしてから、話を展開させるのに対し、ブソッティは結論も、指針も与えず、「何某で、何某で、何某」と即興的、直感的に並列してゆきます。

最後に「だから何某」と結論を述べるかと思いきや肩透かしにあったりして、訳してゆくと、終りがいきなり尻切れトンボになることがありました。何が言いたくてこう言っているのか教えてくれと言っても、「今言っている通り訳せばいいから」と笑うばかりで、ちゃんと話の辻褄が合うように祈りながら訳すこともしばしばで、文字通りの五里霧中でした。そんな風に、ブソッティ自身からは、どんなに話題が展開、逸脱しても、どこかで本題に帰結させることが出来る、纏め上げられる自信を感じました。

作曲でもレクチャーでも全く同じです。16日イタリア文化会館でのレクチャーで、ケージが図形楽譜の読み方を厳密に規定するのに対し、ブソッティは大変自由だが、必ずしも作曲者の意図が演奏に反映されなくてもいいのか、という質問がありました。今回、幾つかブソッティの図形楽譜を勉強して個人的に感じたのは、どこまでも逸脱しても、本題、つまり自らの個性、音楽性に帰結させられる自信や信念があってこそ可能だった、実にユニークな作品群だということです。

ケージの透徹な感受性は、自動書記と呼ばれていた頃の、ある種のドナトーニの作曲法によほど近い気がします。結果的に鳴る音は全く違いますが、どんな音の風景を紡ぐか脳裏の奥底で一瞬考え、後はひたすら写経をするように音を写してゆく。神秘的ですらある作曲の作業です。揃って「自己」の介在を否定し、音楽をあるがままの姿で再現しようとするアプローチが共通しています。

ブソッティは正反対で、甚だ大きな主観(エゴ)の塊のようなブソッティの芸術というものがまずあって、どんなことを企んでも、結局は彼の塊に収斂されてしまう、そんな印象を持ちました。例えば、「自動トーノ」の絵のような楽譜(絵文字譜と呼んでいましたが)にしても、実際演奏してみて分かったのは、単なる絵ではなく演奏に適した「楽譜」だということ。不思議に演奏に入りやすい楽譜で、いつもそれなりの音が鳴って、しっかり楽譜の用を成すべく書かれていることに、感心させられました。悠治さんと美恵さんが、「自動トーノ」の楽譜を見て、「やっぱり五線紙に書くわけね」と言ってらしたけれど、案外これは演奏しやすい「絵」を企む上で、重要なファクターだったのかも知れません。その辺りのテクニックはちょっと分かりかねますが。

先日、「自動トーノ」の演奏に参加してくれた、桐朋の学生さんから、嬉しい電子メールを頂きました。何でも、「自動トーノ」の演奏会の後、ダンスカンパニーの演奏のオーディションがあり、自動トーノで学んだ即興が思いがけず役に立った、というお礼がしたためられていました。こうして、ブソッティとの出会いが、今回関わってくださった皆さんの心のどこかに、何かを残してゆけたのなら良いのですが。

(1月25日 ボローニャにて)


追伸:
先月号で、忘却してしまったブソッティの和声教師の名前はRoberto Lupiという指摘を頂きました。その通りでした。どうも有難うございます。