5
ニューヨークのブロードウェイの代名詞となっているミュージカル・ショーは、もともとはイギリスで生まれた娯楽舞台劇だが、発展したのは1920年代のアメリカだった。その大きなジャンプ台となったのは、女流作家エドナ・ファーバーの原作をジェローム・カーンがオスカー・ハマースタインIIと組んでミュージカル化した『ショー・ボート』(1927年初演)だった。
『ショー・ボート』以前のミュージカルは、基本的には「お笑い」を生命線とする音楽劇だった。「笑い」ではなく「お笑い」とあえて書くのは、風刺や諧謔でぬりこめた笑いではなく、要はドタバタ劇だったからである。
現在のアメリカのショー・ビジネスの多彩さからすると信じにくいことだが、それ以前、アメリカ独自のショーといえば、ミンストレル・ショーぐらいしかなかった。ミンストレル・ショーというのは、白人の出演者たちが黒人に見える化粧と扮装をし、黒人奴隷たちが合衆国の土の上で伝統的に育て上げてきた歌や踊りをまねて演じる、これまた滑稽音楽劇である。日頃黒人たちを徹底的にいためつけている白人の観客たちが、黒人をとことん笑いものにするために生まれたショー、と言っていい。
余談だが、1960年代にわが国でも大ヒットしたミュージカル映画『ウェスト・サイド物語』では、ジョージ・チャキリスなどの白人俳優が顔と肌を黒く仕上げてプエルトリカンを演じた。チャキリスがアイドルだった当時中学生の僕は、来日した彼の「真っ白な」顔を週刊誌のグラビアで見て、驚愕した。いまにして思えば、華麗なミュージカルを俳優たちが力感あふれる演技で演じた映画を支えていたのは、ミンストレル・ショーの嘘くさい伝統だったのである。
作曲を担当したユダヤ系アメリカ人、レナード・バーンスタインは、いったいこのことをどう思っていたのか。40年以上経って、本人がとっくに世を去ったいまも気になる。
それでは、『ショー・ボート』は、どこがどうそれ以前のミュージカル、さらにはミンストレル・ショーと違っていたのか。一言でいえば、リアリズムを基本精神として「人種問題」を織り込んだドラマを提示したことである。その意味で、『ショー・ボート』は、はるか後年の『ウェスト・サイド物語』の源流といってもいい。
6
『ショー・ボート』という標題に使われているショー・ボートとは、まあ、説明の要はあるまいとは思うが、近頃の無知な若者たちのために書いておけば、19世紀半ばにアメリカはミシシッピ河で運航が始まった、船そのものが劇場になった劇場船(フローティング・シアター)のことである。劇場で行われるもの=ショーと船=ボートを合わせて、ショー・ボートと呼ばれた。
ショー・ボート自体は、1920年代になって人気を失ったといわれる。それとすれ違うようにして人気を得たのが、ミュージカルの『ショー・ボート』だった。
『ショー・ボート』は船上でショーを演じる一家の年代記であると同時に、恋の物語である。恋物語となれば、主人公は2人。船長兼座長の娘マグノーリア(この名がアメリカ南部のシンボルともいうべき花の名前でもあるのは、多くの人の知るところだろう)と流れ者の賭博師ゲイロード。物語はこの2人の恋と結婚、別離、そして再会を大河ドラマ風に描く。
しかし、それだけではない。物語にはもう1組のカップル、一座の花形スターである美人女優ジュリーと、相手役でも恋人でもあるスティーヴとの悲恋が織り込まれ、いわば二重のストーリーとして展開する。
そうして、『ショー・ボート』を『ショー・ボート』たらしめたのは、実はお話の本筋よりも、伏線であるはずの後者のカップルをめぐるエピソードなのだ。
それはなぜか。
ジュリーは、とびきりの美人だった。アメリカを牛耳る白人社会にあってさえ、そうそうお目にかかることはないほどの美人だった。しかし、彼女は白人ではなかった。見た目は白人だが、実際には黒人との混血で、戸籍上は黒人だった。
ジュリーに恋をした男がいた。しかし、相手にされなかった。悔しさと嫉妬にかられた男は、ジュリーの出生の秘密を知り、密告する。官憲は、法的に禁じられている結婚だとしてジュリーとスティーヴの仲を裂く。
『ショー・ボート』は、そうして物語の様相を一転し、悲恋の物語となる。悲恋に隠されているのは、そう、誰が見てもわかるアメリカという人種差別社会が落とす濃い影なのだ。
それだけに、これが大衆を楽しませるミュージカルになろうと考えた人はいなかった。そのことを最もよく知っていたのが原作者で、小説に惚れ込んだジェローム・カーンがミュージカル化を申し入れてきたとき、エドナ・ファーバーはただ困惑するだけだった。それでも、彼女は最終的には受け入れた。
曲折はさらに続く。この作品のプロデュースは、1920~30年代に「レビューの王様」と呼ばれたフロレンス・ジーグフェルドにゆだねられた。舞台稽古が始まると、そのジーグフェルドが真っ先に題材に疑問を持つようになった。これはミュージカルに向くお話ではない、と彼は判断したのである。
ショーの世界を牛耳っているのは、いうまでもなく白人たちである。そして、観客もまた白人。人種差別を取り上げることが白人社会でいかに微妙なことだったかが、この一事でわかるだろう。
それでも、カーンは、公演を強行した。初演は1927年11月15日。ところはワシントン、ナショナル劇場だった。
開演は夜8時半。第一幕が終わると休憩が入るが、観客たちは黙りこくっていた。やがてこの作品を代表する曲となる「オール・マン・リヴァー」の熱唱のあとも、拍手はほとんどなかったという。
ジーグフェルドは、即座にこのミュージカルを失敗作と断じた。しかし、カーンとハマースタインの自信はゆるがなかった。そして、12月27日、ブロードウェイのジーグフェルド劇場で本公演の幕が開いた。
6週間前のプレヴュー公演とはうってかわって、終演時、今度は嵐のような拍手が爆発した。観客は声をあげて出演者を讃え、それが1929年まで、計572回続く連続公演の始まりになった。
主演は、マグノーリアを演じたノーマ・テリス。しかし、観客の目を奪い、その名を記憶に刻みつけたのは、脇役のジュリーを演じた俳優だった。
それが、ヘレン・モーガンだった。
※参照=CD『More Than You Know/Ruth Etting & Helen Morgan』
The HELEN MORGAN Page