6月の砂漠

今年は、パレスチナ人が、土地を追われて60年だ。イスラエル人が建国を祝う日を、パレスチナ人は、「ナクバ」と呼ぶ。大惨事と日本語では訳されている。パレスチナ難民キャンプは、シリアやヨルダン、レバノンなどに散在するが、キャンプといっても60年もたてば、そこには、ブロックで家を作り、それが、世代とともに大きくなって、普通のアパートになっている。難民キャンプであることを認識するには、壁にかかれた政治的な落書きや、アラファト議長、ジョルジュ・ハバシュといった歴史上の人物の写真が張ってあることだろう。正直、イラク戦争以降、パレスチナは、しんどいと思う。アラブが、ますます拝金主義になってしまい、自ら問題を解決しようと立ち上がるリーダーはいない。

シリアとイラクの国境に、2000人以上のパレスチナ人がテント生活を営んでいることを知っている人は少ない。当のパレスチナ人ですら知らないふりを決め込んでいる。彼らは、バグダッドに住んでいたパレスチナ人だ。1948年、パレスチナ戦争に加わったイラク軍のキャンプが、ジェニンにあった。(ジェニンは、ヨルダン川西岸)ハイファから逃げてきたパレスチナ人は、イラク兵に連れられて、ゲストとして、バスラの難民キャンプへ到着。その後、バグダッドへ移動して暮らしていた。その後、サダムフセインは、このパレスチナ人たちを大切に保護していたために、2003年のイラク戦争後、サダムフセインに辛酸をなめさせられてきたイラク人たちに迫害させるようになったのだ。隣国ヨルダンや、シリアへ逃れようとする彼らに国境はとざされた。いまだに、2000人以上のパレスチナ人が、国境でテント生活をしているというわけだ。

このパレスチナ人たちが、SOSを何度か送ってきたので、私たちも重たい腰を上げることにした。問題は、キャンプがイラク国内にあることで、そう簡単にいけない。国連や、イラク政府、シリア政府と交渉してようやく許可をもらえた。

夏、砂漠は焼け付く。私たちは、情報収集のためにアンマンのNGOの事務所を尋ねた。イタリアの団体だが、セルビア人が働いていた。スロボダンという男は名前のとおり、背丈も高く、いかつい男だ。軍隊の特殊部隊出ではないかと勝手に想像するのは容易である。そんな男が、うんざりするようにつぶやいた。「砂漠は、地獄だ。この間は、テントを訪問していて、俺は、意識を失って倒れていたのだ」という。スロボダンたちは、小さなクリニックを難民キャンプ内に運営していた。「一体、一日に、何人病人が来ると思う? 100人だ。医者はたった2人。しかも常時2人いるわけじゃないからな」スロボダンは、裏の世界を知り尽くしたような顔立ちだ。背筋が凍るような目でにらみつける。「クリニックは、薬しかないからな。検査は、200kmも300kmも離れた町まで転送させる。費用は馬鹿にならない。4月だけで一体いくらかかったと思う?」スロボダンは、にやりと笑いながらそろばんをはじいていた。

私たちは、夜明け前にダマスカスのホテルを出発した。運転手は、朝が苦手のようだ。私たちの行く手には真っ赤な太陽が昇り始めた。太陽というやつは、勿体つけて出てくるが、いったん出てしまえば、あっという間に、頭上から、じりじりと俺たちを干からびさす。運転手は、ともかくスピードを上げて、走っていく。途中なんども睡魔に襲われたようで、車を止めては顔を洗っていた。ともかく、あっという間に国境に着いた。シリア国境は開いたばかりなのか、破られたイラク人のパスポートのコピーが床に散らかっていた。今日は、私たち以外に、キャンプに行く人間がたくさんいた。国際赤十字、イギリスのNGO、許可を待つ間にも、それぞれが自己紹介をして、名刺を交換しあう。いきなり調整会議のようになった。

イラク警察のパトカーが例によって、私たちを迎えに来てくれる。イラクへの入国は、スムーズだった。しかし、アメリカ軍のチェックがあった。僕たち日本人は問題がなかったが、イラク人には、網膜にヒカリを当てて、情報の記録をとっていた。まだ占領はつづいているのだ。

キャンプにつくと好奇心旺盛な子どもたちと、おばさんがやってきては、いろいろと話をしてくれた。しかし、私たちは、容赦なく照りつける太陽にめまいを訴え、記憶はどんどんと薄らいでいった。

私は、アンマンにいた。私たちは、本当に、イラクに行ったのか、思い出そうと思うと頭の奥のほうから痛みだし、やがてずきんずきんと鼓動のたびに痛みが増幅されていくのである。しかし、キャンプに充満していた汚水のにおいは、はっきりと覚えている。そのにおいを思い出すたびに嘔吐しそうになるのだ。そして、スロボダンのあのいやらしそうな微笑み!
米軍の装甲車が、砂煙を立てて走っていく。

6月の砂漠。。すべては砂煙の中にまかれていく。