しもた屋之噺(79)

先月末、まるで昨日のことのように大阪の高層ホテルから夜が明けてくるのを眺めながら原稿を送り、一月経った夜半、庭の夏虫の声を聞きながら続きを書いていると、ものすごく大きな白いキャンバスに、気の遠くなるような日記を書きつらねるような、何となしに朦朧とした気分になってきます。

四月はじめ、ミラノの自宅に空巣が入り、日記帳がわりの数年前のクリスマスプレゼントにエミリオがどこかオーストリア国境の小さな街で偶然見つけてきた、巻末にピタゴラスの数表がはりつけてある色あせた数十年前の小学生用ノートが、プロコフィエフの1番交響曲のスコアと一緒に盗まれてから、日記をつけていなくて、この原稿が肌理の荒い備忘録替りになっています。でも思い出せることは限られていて、取りこぼしも少なくないかと思います。

当初、毎月終わりまでにあげるこの原稿は、自ら課した日本語の宿題のつもりで、日本語を書くことを忘れないでいなければ、程度に思っていましたが、もうすぐ息子が近所の幼稚園に通いだす段になり、親の懇談会などに参加しつつ、息子は何語でどう育ててゆくべきか、思いを巡らせるようになりました。

幼稚園に通いだすまで、イタリア語の導入のつもりで息子とはイタリア語で出来るだけ話し、家人と息子は日本語で接するようにしていますが、さてこれからどういう風にコミュニケーションが発展してゆくか。楽しみにしていますが、多少の不安もなきにしもあらず。日本語が出来たら親としては嬉しいけれど、どれだけ難しい言葉かもよく理解しているし、その苦労の割に、もし海外に住んでいたとしたら、どれだけ利用価値のあるものか、特に昨今の世知辛い日本の現状を鑑みれば、確かに多少首を傾げたくなるのも否めません。

今月はじめ、桐朋で作曲の公開レッスンをさせていただいた折、最初に申し上げたのも、一度海外に出れば厭でも学ばされる、言語感覚というか、契約社会における言語(音楽言語ももちろん含まれるわけですが)に対する責任意識についてで、自分はとにかく音符を書けばよいのではなく、多かれ少なかれ、自らの各音符の一つ一つ、楽譜一つ一つが、われわれの文化を否応なく育んでいるという事実と、同時に残されてゆくことに対する強い認識を訴えたかったのです。もちろん、それは作曲家に限らないと思うし、演奏家であれ聴衆であれ、近しい責任意識は持てるはずだし、持つべきだとも思います。

ちょうど今日、1月に桐朋でご一緒した学生さんからメールが届き、彼女が夏から秋にかけて参加するダンスやミュージカルの近況がとても清清しく綴られていて、とても嬉しくなりました。誰しもそれぞれの過去から培われた個性を持ち、リアルタイムで文化という歯車の一端を自ら担っている実感さえあれば、人生が途端に鮮やかなものに変化するに違いありません。ですから、あたかも文化への直接参加の機会を拒否するような、仮想社会に氾濫する現在の匿名性の横行は、勿体無い気がします。

誰しも完全な人などいないでしょうし、互いに違う人間であることを認めることから、自我を明確にすることもできる筈です。互いに違う人間がコミュニケーションを取るべく手段として言語があり、音楽があるのですから、結果として責任意識が発生するのも、むしろ自然だと思います。

尤も、ついこの間までインターネットすら存在せず、コミュニケーションの手段も全く違っていました。携帯電話もスカイプもついこの間まで普及していませんでした。ですから、今後コミュニケーションがどのように変化してゆくのか、想像を遥かに凌ぐかも知れませんし、現在までのかかる変化が、たとえば匿名性の誘因だったにせよ、これだけドラスティックにコミュニケーションそのものが変化しているのですから、一定の認識は必要かも知れません。

少し話は飛びますが、7月に東京オペラシティで安江佐和子さんが演奏してくださる打楽器曲に、Tree-Nationというニジェールの植樹運動の名前をつけたのは、無責任とも言えます。実際ニジェールに行ったこともなく、この植樹運動が砂漠化を止めるにあたりどれだけの意味が役割を果たすか、おそらくバルセロナの本部ですら未知数かも知れないのですから。ただ、安江さんの演奏に接し、たとえば彼女のCDを通じて、アフリカやニジェールに興味を持つ人もいるかも知れないし、もしかして一人でも植樹運動に参加してくれる人が増えるかも知れません。樹を買わないまでも地球温暖化や森林破壊、世界の砂漠化に対して、自ら出来る心がけはないか考える切掛けになれば、素晴らしいことだと思います。

もう数年前になりますが、最後に茅ヶ崎の祖父の墓参りに行ったときのこと。幾ら探しても墓石が見つからず、結局改めて調べてもらうと、「三橋家之墓」とだけ書かれた墓石に作り直したばかりで、将来新たな名前を書き付けるスペースも必要なのでしょう、墓誌には探していたご先祖の名前は刻まれていませんでした。ですからお墓が見つからなかったのです。

宮大工だった母方の祖父が亡くなったのは1935年前後かと思いますが、死後73年もすれば、彼が存在した跡すら消去されてゆくことを知り、人生の儚さだけでなく、文化の推進力の強さ、強かさを頼もしくさえ感じました。父方の曽祖父の名前も、戸籍謄本は杉山龜太郎、墓石には龜次郎と書いてあり、どちらが正しいか覚えているひともいません。

せいぜい死後70年も経てば、存在など多かれ少なかれ薄らいでゆくものでしょうし、自分のことを死後、長く記憶に留めて欲しいとも思いませんから、やはり如何に現在を生きるか、巨大な世界において、ちっぽけな自分がすべきこと、出来ることは何かと考えるのも強ち無意味ではないと思うし、せめてせいぜい生きている間は、誰でも気持ちよく、正々堂々と生きられる社会であってほしいとも思うのです。

実は今日、家人が一泊二日でペスカーラに出かけていて、久々に息子と二人で過ごしています。外は既に白んで鳥たちのさえずりも一層冴えてきましたが、原稿を書いていると、暑気で寝苦しいらしく、何度か階下から息子に呼ばれ、寝かしつけてきました。そうして、未だ3歳の芋虫だか子犬のような背中を眺めつつ、親父もせいぜいお前に恥ずかしくない程度には譜読みしなきゃと諌めつつ、ジェルヴァゾーニの楽譜を引っ張り出してきたところです。

(6月29日 ミラノにて)