「やだ。また、誰も来ないじゃないの?」
女がすっとんきょうな声を出した。
その港の見える丘の上の古い木造のコンサートホールの席は3列目から始まる。もちろん、ホール内の見取り図には1列目と2列目も書かれているのだがオーケストラが演奏するなどの公演では前の2列が外されて、その分舞台が広くなるのだ。新しい大きなホールが近くにできてから、最近では演奏会も稀になり広くしたままになっていることも珍しくなくなった。
その席は、そんなホールの前から3番目。5列目のちょうど40席ある座席のちょうど真ん中、21番目にある。
「この間も、その前も、この席の人は来た事ないじゃない。もう、来ないなら予約なんてとらないで欲しいものだわ」
どうやら、演奏者の追っかけらしい女が一緒に来たらしい他の仲間に悪態をつく。最近では若い演奏家も多くなり、アイドルのような追っかけも出現している。
コンサートも半ば、休憩時間になり場内が明るくなった時、さっき悪態をついていた女たちに初老の紳士が微笑みかけた。
「その空席のことで随分とご立腹のようでしたね」
「あら、煩かったかしら。だって、ちょうど、その席のところが舞台の出演者と同じ目線になって具合がいい席ですから。いい席を無駄にしないで、他の人に譲ってくれればいいと思うんですよ」
女はまだ、未練がありそうな様子だった。
「そうですか。じゃ、この席の由来をご存じないのですね。あまり口外するような話じゃないんですが、ずっとこの付近を予約されるようだから知っておいた方がいいでしょうね。まあ、信じられないかもしれないが、だまって聞いてくれますか?
先の戦争といってももう随分と昔になりました。しかし、その昔、この国も焼け野原になりましてね。何もなくなった。ものがなくなったのならまだ良かったが、人もいなくなった。大抵のいい人は皆、帰ってこなかった。そして、活力もなくなっていたんです。そんなときでした。戦争の前から音楽をやっていた一人の男が演奏会をしようと言い出したのは。焼けてなにもなかったんですが、手当たりしだいに残っていた楽器を持ちよって下手な楽団の下手な音楽会を、そう、港の見える小高い丘のちょうどこのあたりで開いたんですよ。下手な連中ばかりで、今の立派な音楽家と比べるとたいしたことはできなかったが、聞いた皆の心には希望の灯がともったのでしょう。定期的に演奏会を開いては未来の夢を描いたんですね。徐々に、活力を取り戻し、街にも生気が蘇ったのを感じたものです。
やがて、演奏会は大きくなり、言い出した男は皆の面倒をみる世話役のような形で、中心になって働いていた。このホールができたのも、そんな復興の中でした。市民が誰となく言い出して、実現したのが当時としてはめずらしかった大型の演奏会専用のホールでした。開館当時は多くの有名オーケストラを集めて盛大なセレモニーが開かれたものです。もちろん、初代の館長は戦後、ずっと復興に尽力したその男でした。しかし、いいことがあれば、悪いこともある。このホールができて数年を経た年末。その男は逝ってしまった。最後は耳が遠くなってしまって、大好きだった音楽が聞こえなくなると嘆いていましたよ。
それから何年かした頃ですかね。変な噂が広がったのは。
夜中や休館の日にホールを覗くと、ホールの中に人影が見えるというんです。最初は泥棒かなにかだと思いまして、この中にはピアノやハープシコードなど、ホール専属の楽器がいくつか置いてありましたから。しかし、よくよく話を聞いていくとそういうことではないらしい。初代館長の姿をしたうっすらとした人影が心配そうに楽屋をみたり、ホールや客席の間を行ったりきたりしているらしいんです。それを聞いて彼を知っている連中はピンときましてね。昔からそうなんですが、公演が始まるまで心配で心配で仕方がないらしくて、あれは忘れていないか、これは準備したのか、お客は満足して帰ったか、演奏者には失礼はなかったか、そんなことを始終気にしている男だったから。。。
で、一計を案じて考えたのが、演奏会に専用の席を設けてやろうという話だったんです。それも、ちょうど、この位置。この観客席の真ん中で舞台の演奏者と同じ視線の位置に座って、お客が入る前にゲネプロを聴くのが癖だったから、この位置を彼の功績に免じて提供しようってことになって、だから5列21番はいつも、彼のための指定席として空いているんですよ。いや、空いているって言うのも間違いかな? この年齢になるとね。ときどき、ふっとね。そこに、彼のいる雰囲気がする。そう、名演だとうんうんと頷いているようなそんな気配を感じるんですねえ。おかしいですね。
だから、どうか、彼に免じて許してやってくださいな。また、今日の演奏も絶好調だ。最近の若い演奏家は技術があるから、きょうもそこで喜んで聴いていると思うんですね。いや、ごめんなさいね。変な話をして。年をとってくると昔話が多くなって。困るね。ははは」
そして、ちょうど、その女越しにその席の方を見て、にこりと頷いた。
5列目21番。港の見える小高い丘の上にある木造のホールのその席は今日も空いている。