13のレクイエム ダイナ・ワシントン(2)

  
ダイナ・ワシントンの一生は、ヘレン・モーガンとほぼ相似形である。

大きな違いは、もちろんある。まずもって、ヘレンが白人であるのに対し、ダイナは黒人だった。生年も、1900年のヘレンに対し、ダイナは1924年と、24年の差がある。何より、北のカナダ生まれのヘレンとは違い、ダイナはアメリカの深南部で生まれた。音楽的環境という意味では、人種と生地の違いは決定的といってもいい。

しかし、それでもこの二人は似ている。酷似している。育った家庭環境もそうだが、伴侶としての男を常に求め、しかし満たされることなく、失望と失敗を繰り返した。その点が何よりも似ている。

ダイナ(本名=ルース・リー・ジョーンズ)は、アメリカのアラバマ州タスカルーサの出身だ。深南部のこの町で暮らしたのは実質的にはわずか3年で、一家は北部のシカゴに移住した。理由は単純である。ダイナの父親はどうしようもない酔いどれで、ほとんど家に寄りつくこともなかった。そのままでは、暮らしは成り立っていかなかった。時、第一次世界大戦のまっただなか。一家は、仕事を求めての黒人たちの大移動にまぎれこんで、北部に移り住んだのだった。

ヘレンとその母が同じようにシカゴへ移り住んでから、ほぼ四半世紀。しかし、シカゴはやはりアメリカ随一の急速に発展する工業都市だった。移住した黒人たちの多くは、ここで工場労働者としての新しい生活を身につけた。

しかし、ダイナの母、ミセス・ジョーンズは、北部の新興都市にあっても、故郷でのライフ・スタイルを守り抜いた。それは、「教会中心の生活」である。

ミセス・ジョーンズは、敬虔なクリスチャンであると同時に、教会のピアニスト兼聖歌隊の指揮者でもあった。母は娘にピアノを教え、母子は教会で一緒に弾き語りをした。

ダイナはまだ少女だったが、歌の才能はすでに万人の認めるところだった。その才能に最初に気づいた母は、すぐにダイナを歌の教師につけた。その教師が語っている。「ダイナの歌はまぎれもない本物でした」

ただし、教師はつけ加えた。「ダイナは、男の子の誘いにすぐに乗ってしまう女の子でした。教会で牧師の説教を聞いていても、男の子からの誘いがかかると、そのまま教会を出ていってしまうのがいつものことでした」
ダイナ・ワシントンの後半生の悲劇は、すでに少女時代に始まっている。


  
1940年、15歳になったダイナは、シカゴのロイヤル劇場で開かれた歌のコンテストに出場。第一位を射止めた。
同じ年、ダイナはゴスペル・シンガー、サリー・マーティンのグループに引き抜かれ、プロとしてデビューした。サリー・マーティン・シンガーズは全米でも初の女性だけのゴスペル・グループで、のちにゴスペル界最高のシンガーと呼ばれることになるクララ・ウォードもここにいた。

翌41年、ダイナはゴスペルには飽きたらず、母が「悪魔の音楽」として忌み嫌ったジャズに惹かれるようになっていた。彼女はジャズ・シンガーに転身する決意を固め、シカゴのナイト・クラブで歌うようになった。

ビリー・ホリデイのマネジメントをしていたジョー・グレイザーがそんな彼女に目をとめ、42年、ドラマー、ライオネル・ハンプトンのバンドのオーディションを受けさせた。ライオネルは彼女の声に一目惚れ、いや一聴惚れし、バンドのシンガーに採用した。「ダイナ・ワシントン」という芸名を得たのは、このときである。

ベッシー・スミスとビリー・ホリデイを終生のアイドルとしたダイナの歌は、ブルースそのものではなかったが、ブルース・フィーリングにすぐれ、たちまち広く注目を集めた。1946年にはマーキュリーとの契約ができ、レコーディング活動が始まった。

初期の彼女の歌唱は、いまも『The Complete Dinah Washington on Mercury』などで聴くことができる。洗練にはほど遠いが、心に響くものがあるというのが、この時期の彼女の歌に対する一般的評価といっていい。もともと積極的な性格だった本人も歌い手としての力には自信満々だったようで、電話がかかってくると、開口一番、こう言ったというエピソードが残されている。「ブルースの女王、ダイナ・ワシントンです」

マーキュリーでのセールスは順調で、ダイナは次々に録音を重ねていった。それはまた、ダイナが次第にブルースそのものから遠ざかる過程でもあった。40年代の終わりにはガーシュインの作品を録音しているし、50年代に入るとハンク・ウィリアムズのカントリー&ウェスタン・ソングやポップスも歌うようになった。レコード会社の方針あってのことだったろうが、ダイナ自身、この頃から「黒人社会を超えて評価されるシンガー」を目指していたのだと思われる。

そのことは、ダイナのステージ・パフォーマンスにも反映していた。ダイナの派手好きはよく知られるところで、「女王」の名にふさわしい豪華な衣裳が彼女のトレードマークだった。金髪のかつらをつけてステージに出るのも、いつものことだった。

1950年代半ばになると、ダイナはすでにジャズ界最高のシンガーと呼ばれるまでになっていた。彼女の代表作『アフター・アワーズ・ウィズ・ミスD』や『縁は異なもの』の録音は54年だが、これらのアルバムでは絶頂期に達した彼女の充実した歌が堪能できる。

しかし、歌い手としてスターダムにのぼっていく過程はまた、彼女自身が酒とダイエット薬品に溺れていく過程でもあった。ついでにいえば、「男」とのトラブルも絶えなかった。

絶頂期を迎えてから約10年、ダイナ・ワシントンの一生は暗転へと向かう。

(続く)


※参照=『The Complete Dinah Washington on Mercury