7月6日 田中泯の場踊りにつきあって谷中の公園 そのあと昔銭湯だった画廊で踊りといっしょにピアノを弾く そのあとですこし話す時間があった 微速と後退という二つのテーマが心に残る
田中泯のいう微速は 音にはなりにくい 音は物質の抵抗を破る瞬間に起こる振動だから 最少限ではあっても暴力を必要とする そこに意志があるかどうかは また別な問題だ そのままでいようとする物質の意志に反して その意志から解放されて揺れうごくように誘いかける それが音であり 音は一方的でなく 他の物質と響きあう 揺れが内側に隠れていた流れと外の世界をむすぶ空間を立ち上げる
微速はすこしちがう 意志や意図なしにかってにうごきだしてしまう身体は 思いがけない方向にわずかずつ 崩れ落ちてゆく この崩れの感覚は 外と内の境界をとりはらい ひろがり 沁みだし 沁みとおるもの
「操体」とよばれる手技で味わった感じと似ている 三浦寛先生が言われるには 身体の自動的なうごきを誘い出し それにはたらきかけるには 圧迫したり刺激したりしないで 皮膚の表面にただ触れているだけ といっても ただ触れているだけで 時間も止まったようにじっとしているのは やさしい技ではないだろう
やがて 触れている場所とは離れたところで 身体が位置を変えてゆくのがわかる それを止めることもできないし 方向や速度を変えることもできない 身体はかってにうごいて やがて止まる 崩れるとも言えるし ほどけるとも ゆるむとも言える というのは 身体は 意識していないが 習慣になってしまった日常のうごき自体や それにまつわる意図や意志に拘束され またそれらの意識を拘束しかえす枠になっているから そのような義務や仕事や拘束から離れてみると いつもの 見えない狭い通路にやっと這い込むような 鎧のなかでやっと安心していられるような 支えられた安定ではなくて 自律して しなやかさをとりもどし 身体全体が分岐して それぞれが最少限のうごきを分担するような協調と動的均衡が 一時的にすぎないにしても 姿を見せる
後退 田中泯が弟子たちにやらせるように 後ろ向きに山道を歩く 前進ではなく後退すれば 胸が張り出し 背がひろがり 肋骨の籠のなかの脊柱が垂直に立ってくる バクミンスター・フラーがtensegrity(張力統合体)と名づけた身体の構造があらわれ 風をはらんだ帆のように呼吸が自由になる
前進するときは焦点がしぼられてくる視界も 後退しながらひらかれ 焦点があいまいな いわゆるsoft focusの状態で 細部を特定する中心視よりは 動きと変化に気づく周辺視 さらに見えないものを聴く周辺聴取のモードに入る いわば耳がピンと立ったネコが後ろに気を配っている姿
クセナキスと雪の日にナイアガラの滝を見に行ったことがあった 前がよく見えない吹雪のなかで 片目しか見えないかれが小型車を運転しながら言ったこと ひたすら前進して壁にぶつかるよりは Uターンして最初の角にもどれば もう一つの道がある もう一つもどればさらに別な道がある
そこから敷衍すれば ものごとのはじめ 根源には可能性の海があるということになるだろう いまあることをつきつめれば 梢にのぼっていくように 自由はなくなり 危険が増していく ギリシャや日本のように 古い記憶をもつ土地から来たものたちは 過去にさかのぼりながら 未来をめざす
音が音であるとき もう音は過ぎ去ってしまった記憶にすぎない 音は音の記憶 それならば世界を記憶することもできるだろう 世界の記憶となった音楽が しばらくのあいだ記憶される 喪われたものを忘れないための歌 ブレヒトの詩にあるように 暗い時代にもひとは歌うか そう 歌うだろう 暗い時代について