製本、かい摘みましては(43)

東京・高輪のギャラリー・オキュルスで、渡辺啓助さんの七回忌に寄せて開かれた『W.W.W. 長すぎた男・短すぎた男・知りすぎた男』展(2008.5.17-31)のために作られた冊子に、渡辺兄弟の四男・渡辺濟(わたる)さんの2つの句集が写真で出ている。ひとつは、ホッチキス留めした和紙の束に句を書いた紙と写真をひと見開きずつに貼り、青の厚手の和紙を表紙としてかぶせ、「限定一部 其一番 昭和五十三年 盛夏」と記された『うめぼし』。「蟻誘ひ 空を翔ばんと 梅の種子(たね)」、その左に、路に転がるまっ赤な梅干しの種を照らす強い日差しの写真、といった具合で全10篇が並んでいる。もうひとつは、長兄である啓助さんが濟さんの句のなかから好きなものを選んで自筆で和紙にしたため、やはりホッチキスで留めた『螻蛄の会』。いずれもあまりに簡単で小さな句集だが、なんて妬ましいほどあこがれる「本」であることだろう。

渡辺濟(1912-2002)とは「日立の赤ヒゲ先生」の異名を持つ内科小児科の開業医で、通所施設「太陽の家」の運営にも尽力し、句や絵画、写真に親しんだ。植字工や観光バスガイド、古本屋など8つの職業を持つ8人になりすまして自筆で句集をまとめたり、病院の休診日には路上で靴磨きをしたり、逸話多き人物であるらしい。長兄の啓助さんは推理作家、次兄の温さんも推理作家で編集者だったが1930年に27歳で事故で亡くなっている。この3兄弟を偲ぶ展は、啓助さんの四女で画家でありギャラリー・オキュルスのあるじである東(あずま)さんが、夏の海に飛ぶ3羽のカモメにW.W.W.の文字を見て、「あの3人の精神の冒険家達」の展覧会をと思いついたものだという。冊子のあとがきには、とりあげる作品の選択においては濟さんのものが一番思い悩んだとあり、「父が好きで口ぐせのように言っていた『知られずして、すでに忘れられた詩人』を地でいったような人物であった濟は、書くことへの懐疑をもち、心の奥深いところで文学を否定しているところがあり、芸術への疑問の迷宮の中で右往左往しているようにも見えた」とある。

ホッチキスで留めたあまりに好ましいかたちに、初めて自分で原稿用紙に詩(みたいなもの)を書いた日を思い出した。ちょうどいま時分の季節だったのだと思う。見上げた空に動く雲をみつけた。空は車庫の屋根と母屋の屋根と林檎の木の枝に枠取りされていて、右から左へ動いたので体の向きを変えればそうは見えないと思ったのかぐるぐる回転したがやっぱり雲は動いており、ほんとうに驚いた。葡萄棚をくぐって両親の部屋に入り姉のために用意されていたのであろう原稿用紙を棚からこっそり抜き取ってまた戻って空を見上げ、動く雲をいま一度確かめて「雲が 動いた」と書いたのだった。そのあとになんと書いたのだったか使った原稿用紙は2枚で、恥ずかしくて後ろめたくて2階に上がって机のひきだしに隠した。しばらくして、原稿用紙の枠外にタイトルと名前を書き足して二つ折りして重ねてホッチキスで留めた。またしばらくして、今度は画用紙を表紙代わりに巻いてのりで貼り、表に「詩集」と書いて隠した。隠したモノはいつしか忘れて、探すこともなく失せた。あれは私の初製本だったのかなと思った。