しもた屋之噺(82)

今月初め、まず東京でジェルヴァゾーニが桐朋でワークショップやら作曲レッスンのお手伝いをしました。パリのコンセルヴァトワールで教えているだけあって、二日間にわたる文字通り的を得たレッスン内容に驚かされましたし、演奏の難しいジェルヴァゾーニの作品に熱心に取組んだ学生さんたちにも感激しました。最後の打ち上げで感動したジェルヴァゾーニは思わず涙までこぼし、帰りのタクシーでも、こんなに温かくもてなされたのは初めてだ、日本人が感情を表出しないなんて大嘘だね、なんと温かいのだろう、と繰り返していました。

慌ててミラノに戻った翌朝から、ローディの音楽祭のためドナトーニやバルトークのリハーサルが始まり、挙句の果てにブソッティの「マルブレ」では、相当怪しげなスピネッタまで弾いてシラを切るつもりでいると、あろうことか荘厳なインコロナータ神殿での演奏会の写真が新聞に載ってしまい後悔あとに立たず。

でも、今まで殆ど演奏されなかったドナトーニの「ソロ」と「アザール」は、誰もが息を呑む美しさで、ブソッティの「ソロ」を素材に作曲されたという「ソロ」など、楽譜も普通に書かれているし、もっと演奏に恵まれて然るべきだと思います。エスプレッシーヴォに盛り上げてゆく中盤、モダールにかそけく終わる終盤も秀逸で、もしかすると名作と目される「Etwas Ruhiger Im Ausdruck」より美しいかもしれません。

ピラミッド型に配置された演奏者が、各人それぞれ独立して、聴衆を丹念に観察しつつ演奏を進める「アザール」は、楽譜よりも会場にばかり目を凝らす演奏者の姿が滑稽だし、そこから生まれる乾きながらも、活き活きとした音響はドナトーニならではの明るさを放ちます。

それから間もなく、東京から戻った3歳になる息子はミラノの幼稚園に通い始め、現在朝9時から午後2時までは、ささやかながら拙宅には穏やかな時間が流れます。その合間、そして家族が寝静まった夜半から朝までを使い、明日から出かけるジュネーブ室内管との演奏会のために、武満さんの「ア・ストリング・アラウンド・オータム」の他、モーツァルトの協奏交響曲やらサラサーテのツィゴイネルワイゼンを勉強し、本番の翌日からヴェローナでリハーサルが始まるメルキオーレの新作オペラを譜読みし、来月半ばパリの秋でのニーウ・アンサンブルとの本番ため、ペソンや今井さんや細川さんなどの譜読みに明け暮れていました。でも、前から譜読みしていたポゼのヴァイオリン協奏曲も、未だ頭に入っていないし、それを思うと頭と目がくらみそうになります。

折角なので、今月末ジュネーブの本番の後で原稿を書きたかったのですが、入稿が間に合いそうもないので、幼稚園で息子がポレンタ版砂遊びに精を出すあいだ、階下で家人がさらうブソッティの新作を遠くに聴きつつ、隠れるように書いています。

それら演奏会の顛末は来月にでも書ければいいと思いますが、今回「ア・ストリング・アラウンド・オータム」を勉強していて、武満さんについて学んだことが沢山ありました。モダールな和音の連なりが織り成す音楽の方向性を丹念に紐解いてゆくと、そこに生まれる緊張と弛緩の関係には、明らかに機能和声上のドミナントやトニックを意識させるものもあり、逆に敢えてモダールの特徴を生かし、ニュートラルに響かせる空の部分もあって、その上に多層的に一見非調性的にひびく旋律を被せていることがわかります。

同時に、何度となく丹念に角を削りつつ、明快な繰り返しを避けつづけるモティーフ操作と、それに対峙する明快な再現部を鑑みつつ全体の尾根を俯瞰してゆくと、大学の頃、ただ無機質に分析するばかりだった武満作品の印象からほど遠い、思いがけなく幅広い豊かな世界、クラシックな意味でとても音楽的な呼吸が目の前に開けたのでした。

つまるところ、武満作品の魅力とは、根底の部分で誰もが享受できる作曲者のメッセージによるものだ、という至極当たり前の結論を痛感しながら、今回ソリストの今井信子先生に沢山教えて頂けるのをとても愉しみにしています。この経験は、来年ミラノで「ノスタルジア」と「地平線上のドーリア」を演奏するにあたり、良い肥やしになることを確信しています。

最近、こうして学生時分の自らの資質の低さに驚かされることが多く、自分が漸く理解できるようになったばかりのことを、未だ自分の半分くらいしか生きていない学生さんたちが、忽ちのうちに自らのものにしてゆく姿には、羨ましさを超えて、頼もしさにただ目を見張るばかりだったりするのです。

9月25日ミラノにて