途で疲れて本道を離れ、一樹の翠のもとに
仏(ほとけ)は憩う。 阿難に言うには、
阿難よ、願わくはわが身のために衣を地に布け。
吾、疲れたり。 しばし憩わん。 休みたい。
阿難の言う、世尊よ、うけたまわりました。
四つにたたんである衣をひろげると、そのうえに
仏は座して、また阿難よ、願わくはわが身のために
水を持ち来たれ。 私は渇いた。 飲みたいのだ。
阿難の答える、世尊よ、いま五百輌の車が、流れを
過(よ)ぎりました。 水はしばらく濁ったままで、
澄み切らないのです。 大河がほど遠からぬさきに
あって、水清く、涼しく、いましばらくの我慢を。
仏がふたたび言うには、願わくはわが身のために
水を持ち来たれ。 私は渇いた。 いますぐに。
阿難尊者に告げてみたび言うには、願わくは
水を持ち来たれ。 私は渇いた。 いますぐに。
(阿難はどうしたかって? そんなに飲みたい飲みたい言われるのだから、轍で乱れ濁った水とて、水は水、飲まして進ぜようとした。『仏陀の福音』〈鈴木大拙、明35〉によれば、流れは澄みに澄んで、一点の塵もなかった。これではつまらないね。汚れた水でもよいから飲ませようとした、阿難の瞬間の心がそれではわかりにくい。ジナ教によると、命(jiva)について、「善悪などの業分子侵入の多少の程度によって、現実の命の本質を水の流れるのにたとえる」と。濁水が一時澄みたる時を止業、その濁分を他へ移したる時を滅業、両者の中間を混業、業が力を揮い初めたる時を起業、命が命そのものの状態に復帰したる時を円満位と言うと(「入諦義経」第二品の解説、『耆那教聖典』世界聖典全集七、大9、154ぺ)。著者鈴木重信は満十三年にわたる病魔とのたたかいのすえに、この一冊を遺して三十一歳にて遷化する。それももの凄い執念。)