水――翠の羨道 51

途で疲れて本道を離れ、一樹の翠のもとに
仏(ほとけ)は憩う。 阿難に言うには、
阿難よ、願わくはわが身のために衣を地に布け。
吾、疲れたり。 しばし憩わん。 休みたい。

阿難の言う、世尊よ、うけたまわりました。
四つにたたんである衣をひろげると、そのうえに
仏は座して、また阿難よ、願わくはわが身のために
水を持ち来たれ。 私は渇いた。 飲みたいのだ。

阿難の答える、世尊よ、いま五百輌の車が、流れを
過(よ)ぎりました。 水はしばらく濁ったままで、
澄み切らないのです。 大河がほど遠からぬさきに
あって、水清く、涼しく、いましばらくの我慢を。

仏がふたたび言うには、願わくはわが身のために
水を持ち来たれ。 私は渇いた。 いますぐに。
阿難尊者に告げてみたび言うには、願わくは
水を持ち来たれ。 私は渇いた。 いますぐに。

(阿難はどうしたかって? そんなに飲みたい飲みたい言われるのだから、轍で乱れ濁った水とて、水は水、飲まして進ぜようとした。『仏陀の福音』〈鈴木大拙、明35〉によれば、流れは澄みに澄んで、一点の塵もなかった。これではつまらないね。汚れた水でもよいから飲ませようとした、阿難の瞬間の心がそれではわかりにくい。ジナ教によると、命(jiva)について、「善悪などの業分子侵入の多少の程度によって、現実の命の本質を水の流れるのにたとえる」と。濁水が一時澄みたる時を止業、その濁分を他へ移したる時を滅業、両者の中間を混業、業が力を揮い初めたる時を起業、命が命そのものの状態に復帰したる時を円満位と言うと(「入諦義経」第二品の解説、『耆那教聖典』世界聖典全集七、大9、154ぺ)。著者鈴木重信は満十三年にわたる病魔とのたたかいのすえに、この一冊を遺して三十一歳にて遷化する。それももの凄い執念。)