今年は丑年ということで、今月はジャワの牛にちなんだ話、というか牛乳の話をしよう。
観光ガイドブックの類には載っていないが、ジャワの都市・ソロの名物として有名なのものに「スス屋=ワルン・スス」がある。ワルンは屋台、ススは牛乳のことで、牛乳を中心とした軽飲食を提供する屋台のことである。ソロでは、牛乳は朝ではなく夜の飲み物で、ワルン・ススが開店するのも日没後である。ワルン・ススがソロに多いのは、乳牛の盛んなボヨラリ県が郊外にあって、毎日新鮮な牛乳が調達できるかららしい。朝に搾った牛乳がソロに届くのが昼ごろ、それから煮沸をして屋台に出せるようになるのが夕方以降なので、牛乳は夜の飲み物というわけなのだ。
私のお隣さん一家はスス屋を経営していたのだが、スラバヤの人からスス屋を開業したいと相談を受けたことがあるという。スラバヤにはスス屋がないので当たるかもと思われたらしい。だが牛乳は温度管理も難しく、毎日調達しないといけないから、スス屋の経営はソロ以外の都市では難しいだろう、と我が隣人はアドバイスしたそうだ。隣人によれば、スス屋というのはどうも他都市にはないようだという。確かに、少なくともジャカルタの下町には全然なかった。
ここでふと、守屋毅著「喫茶の文明史」の一節を思い出す。イギリスの砂糖入りミルクティーの成立は、大航海時代のイギリスをとりまく世界構造を反映している。植民地からもたらされる砂糖だけでなく、都市生活者にいたみやすいミルクを恒常的に供給するには、それなりの流通メカニズムの成立が必要で、それがヨーロッパでできあがるのが1600年代だというのだ。ソロのスス屋が成立するのも、郊外との流通パイプがあるからこそなのだが、日本のように安価な殺菌牛乳が大量流通しているわけでないから、スス屋という形態は全国どこでも成立するには至らない。
スス屋は夜に開店する。しかもジャワは、飲酒も女性の夜の一人歩きもないイスラム文化圏だ。ということは、スス屋にたむろするのは男性連れが多いということになる。もっとも屋台や立地によっては男女のカップルが多い所もある。ジャワでは男の人同士が夜、牛乳をいっぱいひっかけながら長話するという話をすると、たいていの日本人男性は仰天する。日本ではお酒を飲まないと男同士で話もできないようだが、ジャワでは牛乳だけで十分話が弾むのだ。
それでは、スス屋にどんなメニューがあるのか。飲み物としてはスス、コピ・スス(コーヒー牛乳)、スス・チョクラット(ココア牛乳)、スス・ジャヘ(生姜入り牛乳)や、STMJ(牛乳+卵+蜂蜜+ジャムー漢方)といった滋養強壮に良さそうなメニューが定番だ。またメニューにはないが、生卵を呑む男性客も時々いる。どうやら精力増強のためのようだ。それ以外には普通の屋台同様、ファンタ類やソーダ・グンビラ(炭酸ソーダ+練乳+グリーンサンド=ノンアルコール飲料)が置かれている。意外なのは、お茶の産地なのに、ジャワにはミルク・ティーという飲み方がないことだ。このことは留学中には全然気づかなかった。
軽食としては、ナシ・ゴレン(焼飯)やナシ・バンデン(魚つきご飯)といったご飯もの(1人前ずつバナナの葉で包んである)に、ビーフン、揚げ物、豆腐の煮付けや鶉卵、焼き鳥、ゼリーなど。そしてロティ・バカール(トースト)を忘れてはいけない。パンにバターを塗ってトーストし、チョコ・スプレーを振りかけ、8等分程度に包丁目を入れて出される。ちなみに、パンにチョコ・スプレーをかけて食べるのは、オランダの影響なのだそうだ。どのメニューも基本的に量は少なく、ちまちまといろいろと食べる楽しみがある。また焼き飯やおかずなどは、頼むと炒め直してくれる。これらのメニューだが、ご飯ものや多少のおかずはスス屋が自分で用意しても、お惣菜類やデザート類に関しては、ルート・セールスで個人が売りにくるのを置いていることも多い。特にたくさんの種類を並べて流行っているスス屋ほどそうである。
ここ数年の間に、シー・ジャックというお洒落な名前のスス屋が、ソロに何軒もできた。他の屋台に比べて、客は圧倒的に若者が多い。どの店でも屋台のテント柄が同じで、真っ赤なプラスチックのお皿を使い、メニューも共通している。お店の人に聞いたわけではなく又聞きだが、シー・ジャック各店は親戚中で経営していて、お惣菜も一族が一手に作って、全部の店に卸しているらしい。この店は私より後世代の留学生に教えてもらったのだが、チェーン展開で屋台を経営する話は今までに聞いたことがなかった。私が知らなかっただけかも知れないが、少なくとも、こんな風に若者向けにお洒落に展開するスス屋はなかった気がする。
留学時代は、スス屋によくお世話になった。スス屋は夜の11時、12時頃まで開いているから、夜にガムランの練習が終わった後に留学生同士で立ち寄って小腹を満たしつつ、いろいろと情報交換をするのだ。日本の喫茶店のような店はソロにはほとんどないから、スス屋が恰好の社交場になる。
これだけありふれたスス屋なのだが、牛乳を家庭で飲む習慣はあまりない気がする。ちょうどお寿司が外食のものであるように、牛乳を飲むのは家の外だけのことのようなのだ。私自身、親しい人の家を訪問したり泊まったりした時に、牛乳を出された経験が全然ない。また私はお隣りのスス屋からよく煮沸して余った牛乳をもらうので、お客があると出していたのだが、意外にも牛乳を飲めない人が多かった。日本のように、健康に良いからと子供に牛乳に飲ませる風でもない。牛乳はあくまでも、大人の社交の飲み物という気がする。