「仕事は面白いものである。嬉しいものである。又愛すべきものである。金縁の美しいものが出来上がる時職人は最も大切に取り扱う。.........金箔が付いていて一方は表紙を付けるために糊がついている。金を汚さない為汚れた糊のついた手を頭の毛で拭う。朝は綺麗に梳って来たものを仕事に懸命になると髪の毛も着物も、手拭いの代用とするほど熱中する」。これは『売られ続ける日本、買い漁るアメリカ』(本山美彦/ビジネス社/2006)という本のあとがきに引用された、賀川はる子さんの自叙伝『女中奉公と女工生活』(大正12)の一部だ。ここではさらに、「製本工が又その書物の製作に対して、熟練の技量を自覚する時に之にも誇りがあるものである」との言葉を引いて、誇りを持って個々に仕事をすることが集合体としての社会の品格になると書いている。
賀川はる子(ハル)は横須賀生まれ(1888-1982)、伯父・村岡平吉(1859-1922)が経営する福音印刷合資会社を縁に賀川豊彦(1888-1960)と出会い結ばれ、ともに社会運動家として活動する。福音印刷とは、上海で印刷技術を学んだ平吉が横浜に戻って聖書などを主に手がけていたようだ。大阪市総合博物館の資料によると創業は1898年、マニラ、シンガポール、タイ、広東、台湾、満州、モンゴル、アメリカなど50カ国の活字を揃えていたという。冒頭の引用に戻ると、十代のハルには仕事はきつかったに違いなく、天金された聖書の表紙張りなどの作業を、憧れや喜びや誇りの言葉にとどめることが大切だったのではないかと思う。
編集者の植田実(1935-)さんが書いた(「ときの忘れもの」ウェブサイト/植田実のエッセイ/2006.10)文京区小石川柳町の製本屋でバイトしていたころの話を読み返す。その路地を歩くだけで、丁合や表紙張りや箔押しなど分業された本づくりの過程を全て眺めることができたこと、また、その後植田さんは編集者としてたくさんの本をつくってきたにもかかわらず、「もの」としての本づくりに一要員として関われたことをどれだけ喜びとしていたか、そして、工場で仕上げた本に発行日として印刷されているその日付が、まさにその喜びの日々のまぎれもない記録であることを、「唯一の忘れ形見である」と記すのだ。47年ぶりに植田さんはその地を訪ねる。「あの頃の私はそこに通うというより、日々その小さな営みに引き寄せられていったのである」
製本屋で働いていたといえば、マイケル・ファラデー(1791-1867)も知られている。橋本毅彦さんの近刊『描かれた技術 科学のかたち』には、イギリスの王立研究所でのハンフリー・デーヴィの講演に感銘を受けたファラデーが、幸運にも実験助手となり、一年半の大陸旅行への同行ののち1833年に研究所の教授となり、60年のクリスマス講演「ロウソクの科学」につながったことが簡単に記されている。デーヴィの助手になるためにファラデーは、講演をまとめたノートを製本し、それを手に申し出たと、後藤幹裕さんが出していたメルマガで読んだことがある。
「日本語は亡びるのか?」を特集した「ユリイカ」(09.01)で長谷川一さんが書いた「イッツ・ア・スモールトーク・ワールド 『綴じられる』という運動へ」の中にも、印象的な一文がある。「綴じを裁ち落とせば、書物は幾葉ものカードに解体されてしまう」。逆の発想は常にあったが、ページをカードとは! そして、本(書物)とカードを「書き言葉」と「おしゃべり」の場ととらえ、その関係についてこう記す。「排他的な実体としてみるのではなく、『綴じられること』をめぐるひとつの運動の二つの様相としてとらえてゆくことはできないか」。
製本は、憧れと喜びと希望と誇りの営みなのだ。