しもた屋之噺(88)

今朝まで長雨が降り続き、緩んだ寒さが少し足を引きずったようにも見えます。現在、朝3時を回ったところ。小雨のなか、鳥たちが少しずつさえずりはじめました。イタリア語にも「さえずる」という言葉はありますが、より柔らかく、「鳥が歌う」と形容する方が多いかもしれません。何と美しい抑揚だろうと、思わず手を止めて聴き入ってしまいます。東京から届いたブソッティの録音を手にリコルディに出掛け、カスティリオーニの「冬・ふ・ゆ」と、バッハ/ドナトーニの「フーガの技法」の大きなスコア2冊を受取ってきました。

実は数ヶ月前から、前にカスティリオーニを演奏した際にスコアとパート譜が違っていて驚いた、どういうことか調べて欲しい、と長らく現場監督を務めるマルコに相談してありました。今では職人気質の出版社の雰囲気はすっかり影を潜めてしまいましたが、14年前に初めて知り合った頃、マルコはリコルディの抱える、何十人という写譜職人を一手にまとめていて、信頼される棟梁という印象を受けました。音楽学畑出身なので、「森は若々しく生命に満ちている」など、読み難い上、演奏も容易でないノーノ作品の校訂版を、リシャールと協力して実現させた立役者でもあります。

当時の現場を知る唯一の人物だからと「冬・ふ・ゆ」の話をしたわけですが、流石の彼ですら、そんな話は聞いたことがないねと首をひねりました。卓上のコンピュータからカスティリオーニのファイルを開くと、案の定、初稿のスコアのみ保存されていました。良いことを教えてもらった、きっとどこかに眠っている筈だから、探し出して連絡する、と約束してから数ヶ月経って、見つかった! と興奮ぎみにメールを貰ったのはつい最近のことです。

その昔リコルディは、販売譜のセクションとオーケストラ・パート譜などレンタル譜のセクションが、全く別に機能していました。それぞれ、出版された表紙の色も違えば、紙もインクも違いました。レンタル譜セクションは、青焼きの、雰囲気はあるけれども、読みにくい印刷譜だったのをよく覚えています。

経緯は不明ですが、その昔カスティリオーニは写譜職人がつめていたレンタル譜のセクションのオフィスに、直接自筆の改訂版を届けて、パート譜を用意させたようです。そうして現在に至るまで、レンタル譜セクションに、改訂版のパート譜が残って現在に至るのですが、自筆の改訂譜が作られたことすら、販売譜セクションには報告されてなかったようです。そのため、改訂版スコアは何十年間も行方知れずで、お節介な日本人が注文をつけなければ、何十年も眠ったままだったかも知れません。

つい最近の作品ですらこの按配ですから、古典作品など言わずもがな。原典版と一口に言っても、作曲者が書き直せば、どれも原典に違いないのですし、当時は今のように簡単にコピーすら出来なかったのですから正しさを問うのも見当外れかも知れません。音楽はかくも確実であって、不確実です。作曲家とて、いつも確固たるものがあって書いているわけでもなく、今日和食が食べたいと思っても、明日は中華を注文しているかも知れないのですし。

そうして受取った、真新しい楽譜の表紙には1978年改訂版と明記してあり、驚くべきことに作曲者は冒頭から曲尾まで、実にていねいに書き直していました。それだけ思い入れと自信があった証拠でしょう。可愛らしい中世の挿絵が挟み込まれていたのもご愛嬌です。見つけてあげてよかった、と思わず独りごちました。これを機に、今後流通するのは全て「改訂版」でしょうから、遠い将来、演奏不可能だった初版を、どこかの物好きが懐かしむかも知れません。

病気で倒れたドナトーニのため新作を補完してくれ、と電話してきたのもマルコでした。思えば来年でドナトーニ没後10年になります。当時ドナトーニは末期の糖尿病で発作を繰り返し、しまいに手も思うように使えなくなって、口述筆記を試したり、シベリウスのソフトを習ったり、書きやすいよう巨大な五線紙を用意させたり、試行錯誤を繰り返していました。そして、試みが失敗するごとに、ドナトーニはいよいよ欝が酷くなり、子供のように周りを困らせていました。補完した最後の2作も、契約履行のため浄書譜の全頁に作者が認めのサインをする筈でしたが、それも出来ず代行しました。あの時も傍らにマルコがいて、じっとサインの終わるのを待っていました。

当時ドナトーニが自作品とともに、気にかけていた仕事があって、それが、バッハの「フーガの技法」の大オーケストラのための篇作でした。バッハの作品も未完ですが、現在残っている作品のうち、未完のフーガを含む最後の3作を、ドナトーニも未完のままやり残しました。オリジナルの「フーガの技法」に、絡みつくような対位法の細い糸が張り巡らされ、2声のカノンは、2声のクラスターの動きに拡大されたりしています。当時ドナトーニは、「フーガの技法」だけは完成させなければ。バッハは実に偉大で、読むたびに感銘をうける。真の天才だ、と繰り返していました。

特にイタリアの作家にとって、大バッハが特別な存在なのは疑いのないところです。音楽学校の和声や対位法の教材は、フーガに至るまですべてバッハであって、コンセルヴァトーリオで10年近く続けなければいけない作曲の授業は、バッハを分析することから始まり、バッハをスタイルでフーガを書くことで完結させられるのですから。

長年各地で作曲の教師をしていたドナトーニにとって、バッハとは子供の頃から刷り込まれてきた、皮膚感覚に近いものだったに違いありません。ここでもバッハの対位法は、まるでドナトーニのモティーフのように、自在に、しかし厳格に、増幅され、襞状に重ねあわされ、ふるえ、絵画に翳を挿すように、遠近感をだしているようにも見えます。

ドナトーニが長く住んでいた、ランブラーテの、薄暗く、整頓の行き届いた縦長の小さな仕事部屋を思い出します。その窓際に、古臭い木製の仕事机が置いてあり、いつも几帳面に、五線紙から鉛筆、数種類の定規が、一寸違わず置かれていました。仕事机の右隅に、いつでも仕事が続けられるよう置かれていた、フーガの技法の原稿が今も目に浮かびます。

ボローニャのアラッラから、次回は是非、市立劇場オケでドナトーニの「フーガの技法」をやりたい、と電話をもらったのは2週間前でした。この「フーガの技法」は、実は全曲を通して演奏されたことがありません。92年にミラノで前半7曲、当時の出来上がったところまで演奏された後は、3年ほど前にトリノのRAIで後半7曲が演奏されたのみだそうです。ですから、どういうものか知るために楽譜を取寄せたのですけれども、大オーケストラのための作品ながら、各フーガがオーケストラのセクションの演奏で、一箇所たりとも総奏がないのです。最初のフーガは金管のみ、次のフーガは木管のみ、続くフーガは弦楽器による演奏で、打楽器、ハープ、チェンバロのフーガへ続きます。このコンビネーションがほぼ1時間、延々と続くのみです。

初日をあけたばかりの「どろぼうかささぎ」も、賃金交渉ストライキのため、5公演レプリカをキャンセルしたほど、色々大変な時期のボローニャ市立劇場です。1時間中、一曲も総奏がないとなると、今後は全オーケストラにソリスト追加料金を支払わなければならず、予算的に全曲演奏は難しそうです。

せめて半分は「フーガの技法」を演奏したいのだけれど、いいかなあ。残り半分は、ドナトーニがマデルナにささげた、「Duo per Bruno」を入れたいと思うんだ。あの、真ん中でフランコが発作を起こし、前半と後半が別の曲になってしまった名曲さ。ちょうどいいじゃないか。「フーガの技法」は、フランコの最も客観的な音の世界をあらわすとすれば、「Duo per Bruno」は、フランコの強烈な表現力、恐ろしいほどの感情表現を具現する代名詞だからね。彼の二面性をよく顕したプログラムになると思うのさ。長年ドナトーニの弟子だったアラッラにとって、没後10年という機会は、途轍もなく意味深いものに違いありません。電話の向こうの声はとても情熱的で、感動していました。

音楽は、鳴ったその瞬間に消えてしまい、目にも見えぬ儚いものですが、触れたものの体内に残ってゆく、何かがあります。鳴った瞬間に理解されなかった、知覚されなかった何かが、時を経て見えてくることもあって、そんなとき、現在まで連綿と、そして有機的につながってきた、人の鎖の尊さに、改めて驚かされたりするのです。

(3月31日ミラノにて)