(3)歌謡音楽祭と「A Banda」~階級を超えた歌

1960年代半ばのブラジルのポピュラー音楽(MPB)は、50年代のボサノヴァ・ブームが終息に向かい、同時に新しい音楽の波が押し寄せた時期にあたる。そのなかでテレビ・メディアが大きな役割を果たした。エリス・レジーナが司会を務めた「O fino da bossa(ボサの真実)」(ボサ・ノヴァの番組ではない。シコも1965年に参加。)やロベルト・カルロス司会の「ジェーヴェン・グアルダ」などが代表的なものだが、テレビ局は音楽番組の人気に乗じて、さらに視聴者参加型の音楽番組を企画した。それが歌謡音楽祭と呼ばれる番組で、各テレビ局がこぞっておなじような音楽祭を企画し、歌手や歌を世に送り出していった。

歌謡音楽祭のはじまりは1960年にTVヘコールの主催にはじまるが、それが本格化するのは5年後の65年TVエセシオールの音楽祭からで、66年にTVリオ、67年にTVグローボなどがこぞってブラジルの文化としての音楽を取り上げ、歌謡音楽祭は大きな注目と影響力をもっていく。どの音楽祭も形態はほとんど同じで、作曲・歌唱部門にエントリーしたアーティストたち(アマチュア、プロを含む)が観客を前に予選を勝ち抜き、最終選考で作品の質・歌唱力によって順位がつけられる。もちろんテレビでも放送される。ここからボサ・ノヴァ以降のブラジルのポピュラー音楽を担うアーティストが世に出ていったといっていい。そこにはシコ・ブアルキはもちろん、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ガル・コスタ、ミルトン・ナシメント、オス・ムスタンチス(リタ・リー)、トン・ゼー、ジョイスなど、現在のブラジル音楽界の大御所ともいえる人たちがいる。

シコ・ブアルキが歌謡音楽祭に参加したのは、65年のTVエセシオール主催の第1回音楽祭。リオやサンパウロなど3会場でエントリーし、そこで勝ち残った13曲がファイナルで競い、第1位から第5位までが決定された。作詞・作曲・歌でエントリーした人の名前を挙げるなら、フランシス・ハイミ、バーデン・パウエル、ヴィニシウス・モラエス、ゼ・ケチ、ロナルド・ボスコリ、ウィルソン・シモナール、エドゥ・ロボ、エリス・レジーナ、ロベルト・メネスカルなど、そうそうたる人たちで、シコは作曲家として「Sonho de Um Carnaval」をエントリーし、歌は友人のジェラルド・ヴァンドレがうたった。サンパウロでの第1ラウンドに登場し、4曲の入選曲のなかに入り、最終選考が4月6日リオで行われた。

「12人の競争相手がいた。ぼくはリオに来て、祖母の家に滞在した。ぼくの歌には問題があった。というのもアレンジは音が低く、ヴァンドレに都合が悪かった。オーケストラは彼の声を包み隠し、うたっている声をきくことができなかった。それは惨たんたるものだった」。第1位になったのはエドゥ・ロボとヴィニシウスの作詞・作曲でエリス・レジーナのうたった「Arrastão」。第2位はバーデン・パウエルとヴィニシウスの曲だった。

少し横道にそれるが、前回書いたようにシコはこの時期「ボサ・ノヴァの奴隷」から抜けだそうとしていた。「Tem Mais Samba」からはじまるシコの発展は、後にかれが語ったように、バーデン・パウエルとヴィニシウスの共作、エドゥ・ロボ、ジョルジュ・ベンが大きな影響を与えた。「Sonho de Um Carnaval」で、シコはまだ自分の音楽をつかみ取ってはいなかった。前回書いたように「Pedro pedreiro(石工のペドロ)」でそのきっかけをつかんだ。ボサ・ノヴァでも古いサンバでもない何か、それをつかむきっかけとなったのはジョルジュ・ベンの影響からだった。ベンは63年にボサ・ノヴァとは異なるアプローチでデビューし、パーカッシブな独自のギター奏法でポスト・ボサ・ノヴァの代表格となった。「Pedro pedreiro」はそのパーカシッヴな伴奏、歌い方など、ベンの影響が感じられるが、そのあと「Olê Olá」が続き、シコは自分の発見した音楽の道を発展させていく。そうしたなかで歌謡音楽祭への出場は、成功を手にするための大きな手段だった。シコは翌年1966年に行われたTVへコールの第2回歌謡音楽祭にエントリーする。

音楽祭には作曲家としてカエターノ・ヴェローゾ、ジルバルト・ジルがエントリーしたが、開催される前、シコはこの二人とトルクアット・ネト(トロピカリアの詩人)に曲をきいてもらっている。エントリーする曲を迷っていたシコは「Morena dos Olhos D'Agua」と未完の「A Banda」の2曲をきかせる。ジルとトルクアットは後者を押した。別の日にきいたカエターノだけは前者を好んだ(カエターノの「A Banda」への評価に関しては、次回「シコとカエターノ」で予定)。結局、「A Banda」でエントリーする。そしてそれがかれの人生を大きく変えることとなる。

歌をうたったのはナラ・レオン。シコとの出会いは、ナラがコパカバーナのボサ・ノヴァの聖地とされるマンションに招待したことにはじまる。そこでシコの歌をきき、彼女が次にレコーディングする3曲(「Olê Olá」「Madalena Foi pro Mar」「Pedro pedreiro」)を選んだ。そうした関わりからシコは音楽祭の参加をナラに打診した。彼女は一人でうたうことを希望したが、音楽祭のディレクターはデビューしたてのシコを売り出そうとしていたのか、まずシコがギターの弾き語りで全曲うたい、そのあとバンドが入ってナラが再び全曲をうたうという方法をとった(エントリー上では作詞・作曲になっている)。

この第2回目となる音楽祭は60年の第1回から大幅に規模を拡大し、3回3日に渡る37曲で予選が行われ、第1ラウンドにはカエターノ(作詞・作曲)、第2ラウンドにはシコ、ジル(作詞・作曲)、第3ラウンドにはエドゥ・ロボとルイ・グエッラ(作詞・作曲)などもいた。これらの人を含め、10月10日、12曲でファイナルを迎えた。第1位を獲得したのはシコとナラの「A Banda(楽隊)」とジェラルド・ヴァンドレとテオ・ヂ・バーホスの「Disparada」だった(第5位はジルとエリス・レジーナの歌による「Ensaino geral」)。

音楽祭でシコとナラがうたう「A Banda」の映像を見ることができる(http://www.youtube.com/watch?v=HEqkkSE3V2E)。当時の曲の人気と熱気が伝わってくるもので、タキシードと蝶ネクタイ姿のシコがまずギター弾き語りでうたい、その後でバンドをバックにナラがうたう。シコがうたいはじめると会場の聴衆が手拍子でうたいはじめ、バンドの演奏では総立ちで会場全体の大合唱となっていく。

音楽祭の2週間後、ナラが曲をレコーディングし、一週間で莫大な売り上げを記録した。レコード評には「『A Banda』はすばらしい。なぜならそれがブラジルだからだ。それはブラジルの人々の集団的無意識なのだ」とある。「MPB―A HISTÓRIA UM SÉCULO(MPBの100年史)」を書いたR.C.アルヴィンは、その著書のなかで書いている。「『A Band』はブラジル・ポピュラー音楽の歴史のなかで先例のない現象だった。ブラジル・ポップ・チャートでその年の最後まで残り続け、安っぽいバーから文学アカデミーにいたるまで、あらゆる社会階級でこの曲が話題になった」。

こんなエピソードもある。シコはミナスジェライスに招待されたとき、飛行機を降りると10のバンドが曲を演奏して到着を祝った。また、大統領のセレモニーでも曲が使われている。大スターとなったシコはまだ22歳、サンタクルス大学の建築学科に在籍していた。曲は楽隊の行進を見ているときに心に浮かんだものであり、伝統的なマルシャによって書かれている。

  「A Banda (楽隊)」

  でも魔法は解け
  甘い夢も終わった
  楽隊が通り過ぎたあとで
  すべては元にもどった
  それぞれはそれぞれの場所に
  愛の歌をうたいながら行く
  楽隊が通り過ぎた後で

          (荒井めぐみ訳) 

この曲は、1966年の記念すべきシコの最初のLP「CHICO BUARQUE DE HOLLANDA」の第1曲目を飾ることになる。陽気な旋律やリズムがふとした瞬間に影を引いていく。それこそが日本語で「郷愁」と訳される、サウダーヂというブラジル人独自の感覚なのだろう。詩の内容はシコ自身の個人的な感情を歌にしたものだが、庶民の希望をうたった「Pedro pedreiro」もそうだが、一般民衆からインテリ層まで幅広い対話を可能にするものだった。エリートの家庭に生まれたが、「集団的無意識」を揺さぶるブラジルの人たちの階級を超えたシコへの賛美は、それがゆえに、ほかの誰よりも政府の検閲という厚い壁が立ちはだかることとなる。