まんぼうだって、空を飛ぶ

私の前世は「マンボウ」だということにしています。占い師に言われたわけでも、前世の記憶があるわけでもないけど。思い込みと願望で、そう言って回っているわけです。

はじめて生きているマンボウを見たのは、まだ新しくなる前の江ノ島水族館。大きな水槽の内側にビニールが貼ってあり、その中を2匹のマンボウが漂っていました。とても「泳ぐ」とは表現できない、その動き。一応、自分の目指す方向は決められるようですが、急な方向転換は出来ません。そこで、ガラスに激突して怪我をすることがないよう、ビニールで緩衝帯を作ってあるのです。エプソン・アクア・ミュージアムで出会ったマンボウは、江ノ島のマンボウよりも泳ぎが下手に見えました。真横になって漂ったり、上を向いたり。

なんで海の中にいるのに、そんな泳ぎにくい体に進化しちゃったかなぁ? 最初は、そんな不器用さに共感を覚えました。進みだしたら急には曲がれない頑固さも、共通点かもしれない。それなのに、海の中を楽しんでいそうな、気持ち良さそうな漂いっぷり。時には、海面に横になって浮いて、ひなたぼっこ(?)をしたりするらしい。進化を重ねて行きついたのがあの姿かたちと泳ぎ方なのだから、防御とか攻撃とかを超越している。よく言えば、悠然とわが道行く平和主義。

ちなみに、マンボウを前世だと決めるずーっと前に思い入れしていたのは、カメ。周りの女の子たちが、クマちゃんやウサちゃんのぬいぐるみを抱いていた頃、私はカメのぬいぐるみを抱え、カメのぬいぐるみにまたがっていたのです。

唯一、海鮮系でなかったのは、「みきわん」という子犬。これ、実在の子犬ではなく、私が心の中に飼っていた子犬なのです。みきわんはかなりリアルに存在していました。アガサ・クリスティが心の中に作っていた「学校」みたいな感じ。自分がみきわんを演じることもあれば、私がみきわんと遊ぶこともありました。みきわんはちゃんと躾されていたけれど、子犬らしく我儘も言いました。

大人になってから考えると、このみきわんやカメへの思い入れは、なかなかに便利なものだったなぁと思うのです。例えば、自分の欲望が叶えられない時、それをみきわんのものとして「みきわん、今はダメなんだよ」と納得させる側にまわることが出来る(まぁ、子供のころは、それがみきわんの欲望であると信じて疑わなかったわけですが。だってみきわんは居たから)。小学校入学当初は運動能力も低かったので、それはなんとなく、カメに慰められていました。

同じように、大人になってからビビッときた「マンボウ前世説」も、適度に諦めたり力を抜いたり、集団の中で自分らしく在ることに役だっているなぁと思うわけです。「まぁ、前世はマンボウだし。」と、こう思えば、気づかなかった壁にぶつかっても、なんとなく漂っていける。

この感じは、先月紹介した俳人・坪内稔典さんの河馬の句に通じるところがあるかもしれません。稔典さんは、河馬は世界を見る「仕掛け」のひとつであると、著書の中で述べています。世界と自分の間に、ちょっとワンクッション。世界を面白く見る仕掛け。私は、自分をちょっと楽にするもの、という感覚もあるのではないかと、思っているのですがね。自分を許す、というか。

稔典さんは他に、柿や犀にも、思い入れしているようです。マンボウはないのかな? と思ったら、ありました。

 マンボウの浮く沖見えて母死んだ

世界と自分の間に置く生き物の条件としては、以下4点が挙げられると思う。
・ カンペキではなくて
・ かっこよくなくて
・ ちょっとヌケている雰囲気を漂わせていて
・ でも、がっしりしている感じ

と、こんな調子でマンボウマンボウと言っていると、マンボウ情報が色々集まってくる。先日、母から教えてもらったナショナルジオグラフィックのサイトに載っていた「マンボウのプロフィール」を見て、私はびっくりした。なんと、マンボウ、飛ぶんだそうです。海面から3メートルも。マンボウだって、飛ぶときゃ飛ぶんだぜ! と、背中を押された気持ちがして、ますますマンボウが好きになった新緑の季節。マンボウに、5月病の心配はなさそうです。