シコ・ブアルキとカエターノ・ヴェローゾ、80年代には「シコとカエターノ」というテレビ番組で共演し、現在では互いの音楽、芸術活動を認め合っている仲間だ。しかしブラジル・ポピュラー音楽の巨匠ともいえるこの二人には過去に因縁めいた話がある。
カエターノは「トロピカリア」の中心人物としてアメリカやイギリスのロックをブラジルにもたらしたが、ボサ・ノヴァを通して新しいサンバを生み出したシコにとって「トロピカリア」は即座に批判すべき対象ではなかったにせよ、二人にはある時期たしかに溝があった。
前回取りあげた1966年に行われたTVへコールの第2回歌謡音楽祭のエントリー前に、シコはライバルでもあるジルやカエターノに2曲きいてもらい、どちらの曲がいいか判断をあおいでいる。ジルは未完の「A Banda」を選び、カエターノは「Morena dos Olhos D'Agua」を選んだ(カエターノは後にこの曲を歌っている)。結局、「A Banda」で優勝し、シコは若くして大スターにのし上がっていく。
その次の音楽祭はカエターノの年だった。ロックバンドを引き連れた「Alegria Alegria」で第4位となるが(シコが「Roda Vida」で第3位)、大ヒットし、一躍時の人となる。「新境地を切り開く若者のリーダー」など新聞社がこぞって褒め称えた。レコードは10万枚を売り上げ、時のアイドルとして、その人気はビートルズ・マニアを彷彿とさせるほどだった。
シコの「A Banda」は老若男女問わず万人に認められた。一方、カエターノは若者の人気者となった。この違いをカエターノは後に分析している。「彼は『Alegria Alegria』がリリースされる前の年、悲しい道をバンドが通り過ぎていくノスタルジックな、オールド・ファッションの『A Banda』で音楽祭に優勝した〜コカコーラを含む20世紀の生活を扱い(歌詞参照)、ロックバンドでやった『Alegria Alegria』は、シコの歌とは対極を示している」。「『A Banda』は、確実にシコのマイナーな作品だが、彼にとって扉を開くのに役に立った〜だが、その歌は彼にできる作曲の洗練というものをほとんど反映していない」。
Alegria Alegria(アレグリア・アレグリア)
風に向かって歩く
ハンカチなしで 書類もなしで
もはや12月の太陽の光の中を
僕は行く
太陽は罪を配分する
広大な寺院 ゲリラ戦 美しいカルディナーレたちの中を
僕は行く
大統領の顔、恋人たちの激しいキス、歯、足、旗、
爆弾とブリジット・バルドーの間を
新聞スタンドの光は、喜びと退屈で僕をいっぱいにする。
だれがこんなにに多くのニュースを読むというのか
僕は行く
写真と名声を横切って
いろんな色の目 空っぽの愛でいっぱいの胸を通過して
僕は行く
どうしていけないの? 何がだめなの?
彼女は結婚のことを考える
僕は一度も学校へ行っていない
ハンカチなしで 書類もなしで 僕は行く
僕はコカコーラを飲む
彼女は結婚のことを考える
ある歌が僕を慰める
僕は行く
写真と名前を横切って
本をもたず 銃ももたず
空腹もなく 電話もなく
ブラジルの中心を僕は行く
彼女には決してわかるまい テレビで僕が歌うと考えたことを
太陽はあまりに美しい
僕は行く ハンカチなしで 書類もなしで
ボケットにも、手にも決してもたない
生きながら後を追っていきたい、ねえ君、
僕は行く どうしてそれがだめなの?
(ベアトリス訳)
これがカエターノのだいたいの意見だが、まだ続きがある。カエターノにとっての「Alegria Alegria」もシコの「A Banda」と同じ役割しかなかった。つまり扉を開くこと。「『Alegria Alegria』が音楽祭のなかでマルシャであったという事実、それはアンチ・バンダ(反『A Banda』)であり、もう一つの名前のバンダ(ロック・バンド)でもあった」。歌詞の内容の類似を含め、共にオールド・ファッションであると述べている。「Alegria Alegria」は「A Banda」の「一種のパロディ」だった。
カエターノがこの話を切り出すきっかけは、当時、二人の間にライバル関係が問いただされていたことから始まっている。同じ時期に二人のスターが生まれ、一方は伝統を更新し、もう一方はロックという形をとる。しかしそうではない。どちらも同じものの言い換えにすぎない。ただ、メディアはそのようには見なかった。
ある時、カエターノがシコについてどう思うかをきかれたとき、新聞には次のように掲載された。「シコは緑色の目をもつ若く美しい男でしかない」。当然、その前後を削除して批判的な部分を切り抜いた。この前には「僕は大きな髪の若者で、シコは緑色の目をもつ若く美しい男」とあった。掲載された記事についてカエターノはシコに説明をしなかったし、あまり心配もしていなかった」。しかし、これがきっかけとなり、特にシコの支援者から批判を浴びることになる。
カエターノの支援者よりもシコの支援者ほうが圧倒的な大多数だった。1968年6月6日、シコが前年まで所属していたサンパウロ大学建築学部都市計画学科の学生によって企画されたトロピカリスタたちへのバッシングは、そうした意味合いがあったと思われるし、トロピカリアの論争がシコとカエターノの関わりからその規模を増したということもできるかもしれない。