しもた屋之噺(95)

「不況バンザイ!」と言われたら、君は何と答えますか?
明後日、イタリア国営放送3チャンネルの来年放送予定の新番組、現在の不況を明るく乗り越えるコツ「不況バンザイ!」のインタビューのため、テレビのクルーが拙宅へやってくるとかで、急遽居間の掃除に精を出しました。質問事項がいくつか送られてきたのですが、最初の質問がこれです。一体どう答えたものか。何でも、ミラノに住んでいる指揮者や作曲家に話を聞きたいということで、一人の生徒さんを通して、お鉢が回ってきたわけですが、実は今月は珍しくこの手の話が次々と舞い込み、困り果てていました。

神仏習合から非核三原則、政教分離など、中学生のための日本文化紹介の電話インタビューやら、ミラノ・ムジカ演奏会の宣伝のためのFMラジオ生放送のインタビューなど、やるたびに落ち込むのでもう引き受けまいと心に誓っていたのに、生徒さんから、折角だしぜひ、と頼み込まれると、結局今回も彼の好意もむげにできず、結局終わってから大いに後悔するのは目に見えているのです。来月末のボローニャ・テアトロ・コムナーレの演奏会でも、本番直前にコンフェレンスがあって、出席するだけでも辛いのに、何か話さなければならないと聞いて、今から脅えています。

今月は初めにミラノでロンバルディア州立オーケストラ「ポメリッジ・ムジカーリ」と武満徹、田中カレンなど邦人作家のほか、マンカ、ジェンティルッチなどイタリア人作家があって、最後は「牧神の午後」という不思議なプログラムでした。日本から帰ってきたばかりだったので、イタリアが懐かしいというか、目が飛び出るほど驚くというか。練習が始まる段になって、楽譜を読んでないどころか、誰がどのパートを弾くやら弾かないやら、まだがやがややっているだけでなく、特に編成や並びが変則的だったせいもあって、何処かへ行って帰ってこないステージマネージャーが椅子と譜面台を動かさない限り自分はここから動かないと始まり、少ない練習時間を無駄にできないので、それなら動かしてあげるから、と宥めると、「マエストロ、それはいけません。ともかく連中はまともに仕事をしない。これは前々から我々の間で大いに問題になっておりましてね」。でも、そうやって頑張っている限り、君も仕事をしないことになってしまう、と口が滑りそうになるのをこらえて待っていて、喫茶店から悠々と帰ってきたステージマネージャー陣が漸く椅子と譜面台をセットし、演奏者が席に着いたと思いきや、今度は、自分のパート譜が譜面台に載っていない、わたしのパート譜セットをどこにやったのよ、などと始まり、なかなか音が出るまでに至りません。

それでも練習が始まれば、没頭してどこまでもぐいぐいついてきてくれるので、あれだけ短い練習で互いに何とかしてしまうわけです。それが善か悪かは別として、無理やりでも何とかしてしまう、何とかなる、という意味において、イタリア人は天才的な才能を発揮しますし、学ぶところも少なからずあるように思います。

「地平線のドーリア」をミラノで演奏しながら、子供のころに上野の文化会館でこの曲を聴いて、遠くからへろへろの音響のつむぎ出す不思議な空間を心地よく眺めていたのを思い出し、胸が熱くなりました。途中のヴィブラートのフレーズの歌い方など、芯の奥がたぎるようなところがあって、イタリア人の「地平線」もなかなか味わい深いものでした。

中旬には、一年ぶりにお会いした今井信子さんや吉野直子さんがミラノで武満さんなどを演奏されたので楽しみに出かけたのですが、本当に豊かな音楽とそれを待ちに待っていた溢れんばかりの聴衆の熱気で、本当にすばらしい一晩となりました。それだけでなく、吉野さんご夫婦と近所のプーリア料理にでかけたり、今井さんやみなさんと応対のいかがわしいシチリア料理屋でオーナーに追い払われたり、揃って黒服に身を包んだファッション業界人のパーティと隣合せで、カブール広場の眺望の良いレストランで遅い夕飯をいただいたりと、すっかり愉快なひと時を過ごしました。

同じミラノ・ムジカ音楽祭の一環ですが、すぐれたヴァイブラフォン奏者で、特にジャズを得意とするアンドレア・ドゥルベッコが、先日武満さんのために書いた小さなオマージュを演奏してくれたので、子供が熱を出し、すわ豚インフルエンザかと慌てふためきながら本番直前に駆けつけると、会場のピッコロ・テアトロ・スタジオは観客が入りきれずに目の前でくじ引きをしているではありませんか。現代音楽の演奏会など元気がないものだと思っていたもので、それは驚きましたし、自分も入ることすら出来ないかと肝を冷やしました。演奏会後も、挨拶もそこそこに慌てて家に飛んで帰ってしまい、なんとも申し訳ないことになってしまったのですが。

ちょうどそのころ家人が10日ほど日本に戻っていたので、来年春に75歳になる母が子供の面倒をみに手伝いに来てくれました。さんざん世話になったお礼を兼ねて、日帰りでヴェニスに連れてゆくと、サンマルコ広場はどっぷりと水に浸かっていて、満潮と重なり、ひどい所では30センチ近い深さになっていたかもしれません。こんな風景は11月くらいかと思っていたので、困りましたが、それはそれで不思議な美しさがありました。何しろ普段は人いきれの広場ががらんどうなのですから、落ち着きを取り戻していて、ひたひたとまるで目の前の海と一つに繋がってしまったかのようでした。

やる気のまるでない土産物屋の妙齢から、ビニールを張り合わせただけの簡易長靴を一足10ユーロで買わなければ、細い路地などたちまち運河の水で膝下まで冠水していたりして、到底歩けるものではありませんでしたが、それはそれで母親にとっては愉快なヴェニス小旅行の思い出となったようです。

無数の溢れかえる路地をやり過ごし、何とかアカデミア橋を超えてサンバルナバ広場脇の食堂に必死にたどり着いたときは本当に安堵しました。友人が是非にと奨めてくれただけあって、どれもがそれは美味しかったこと!鳥肌が立つほどのシャコのパスタや、飛びきり新鮮なカレイのグリルなど、感激を言葉では到底書けないほどです。窓際の席で、ロンガ通りの細い辻をゆきかう人を眺めていると、冠水ヴェニスならではの妙齢の長靴のお洒落と、両腕いっぱいに長靴を抱え、靴屋に卸に行くとおぼしき女性が目立ちました。

そんな毎日のなか、生徒のひとりがトリエステのコンクールのヴィデオ審査に通ったということで、時間を見つけては、何度となくミラノの中央にある彼の家にでかけ、ピアノ合わせに付合いました。彼の母方の曽祖父はトリエステの劇場支配人も務めた高名なヴァイオリンニストで、高祖父と言うのでしょうか、祖父の祖父は、ウィーンで学んだ19世紀の重要な画家で、家中いたるところ、トイレに至るまで彼の絵が飾ってあります。非常に裕福で芸術的薫り高い家庭で、まるで映画に出てくるような佇まいと言えば、間違いのないところです。典型的なユダヤ人家庭の芸術家、富豪のイメージを体言しているわけですが、最後の練習が終わり、ピアニストと一息つきながらふとイタリアの歴史に話が及んだときのことです。
「三国同盟の印象が強い日本人からみると、イタリアが戦勝国扱いなのは不思議でさ」。
「ムッソリーニも20年代、ヒットラーと繋がるまでは農業政策やら高速道路建設など、外国からも評価が高かったと読んだことがあるけれど、実際の所はどうだったのかね」。

すると、それまで落着いて話していた彼が少し興奮して、こう話してくれました。
「その歴史は捏造に違いないんだ。実際ムッソリーニは当初から自分とそりが合わない人間を悉く排除していたからね。戦時中、うちの家族もずいぶん酷い目にあった話を何度も聞いた」。
「親戚の誰はどこに逃げて、誰にかくまってもらって、と色々とあったそうでね。あちらこちらに散らばっていったんだ。そんな中、SSに追い掛け回されてガルダ湖の上にあるほんの小さな街に逃げ延びた親戚がいた。もう死んでしまった年老いた父の叔父にあたったかな。匿ってくれていた、正にその家の主人が密告してね。逮捕されアウシュヴィッツに送られ、そこで死んだんだ」。
「長い間、父だけがその密告者の名前を知っていてね。他は皆年齢的にももう亡くなっていたからね。皆で父に何度となく密告者の名前を教えろと詰め寄ったんだけれど、頑として死ぬまで一度たりとも話してくれなかった。彼の名前を言ってどうなるものでもないだろう。彼は今では彼の家族もいるだろうし、そういう時代だったのさ。今さらこれ以上いがみ合ってどうしようと言うんだ。つるし上げたところで何になるわけでもないだろう、ってね」。
「そんな父のことを、つくづく偉いと思う」。

すっかり長くなってしまって。家まで送ってゆくから、と外に出ると、辺りはもうすっかり日も暮れて、ミラノの秋らしい深い闇に包まれていました。

(10月29日ミラノにて)