中央広場すぐ裏のホテルの窓から見ると、ボローニャの街は赤茶けた屋根ばかりがどこまでも続いているのがわかります。テアトロ・コムナーレとの最後の練習がおわり部屋に戻ってきたところです。練習の録音を聴きつつ歩いて帰ってきました。
ボローニャに来るたびに思うのは、ここが典型的な若者の街だということ。大学が大きいからでしょう。昨晩10時半に練習が終わり、ホテルに戻る道すがら、街はまだすっかり若者で活気に溢れていて、ミラノとずいぶん違う生活スタイルに驚きました。ただ同じ道を歩いて帰ってきたながら、録音を聴いていると、先ほどはすれ違う若い男女の姿が、映画のシーンのように、すべて色あせたセピア色にくぐもって見えるのです。生気が誰からもぬけて、映画のフィルムも端からちろちろと焦げはじめているような、もうすぐ大きな炎に呑み込まれそうな、そんな薄い予感のようなもの。
歩きながら聴いていたのは、つい今しがたまで劇場で練習していた、ドナトーニが大オーケストラのために書いた「Duo pour Bruno」。ドナトーニがマデルナの死を悼んで作曲したものですが、この作品に関しては、実は今も胸がつまってうまく書けません。
Duo pour Brunoは、マデルナが命を落とす原因をつくった癌細胞が、体内で生まれ、少しずつ増殖してゆき、ある瞬間から癌細胞が活発に体内を駈け巡り、あちらこちらに巣食い、それぞれの癌細胞はしまいには身体全部を呑み込み、壮絶な痛みとともに、人間が朽ち果ててゆく姿を、透徹に描いています。
自宅でひとりさらっていても、何度も鳥肌が立ちました。常人の視点ではないのです。本当に痛いまでまざまざと死にゆくさまを客観的に観察している。自分がまさに見開いている目になっているのがわかり、おののきます。実際にオーケストラと演奏すると、恐ろしさはまさに現実のものとなります。素晴らしい演奏をすればするほど、自分が腐ってゆくのがわかります。最後の通しでそれは素晴らしい演奏をしたあと、演奏者たちが口々に、とんでもない作品だ、本当に怖い、呑み込まれそうに病んだ作品だ、そう力が抜けた声でささやきあっていました。
ドナトーニは普通の精神状態ではなかったとおもいます。マデルナとは親しい間柄でしたから当然でしょう。マデルナが売春婦に産み落とされたこと、身分のある家に養子に貰われても、自らの出生を一生引きずっていたこと、どれだけ彼が音楽の天分に秀でていたかということ、第二次世界大戦中、パルチザンを支援しナチスから身を隠して暮らしていて、ある女性が密告しナチスに囚われたこと、戦後女性が裁判にかけられたとき、召喚されたマデルナは過去のことだといって水に流したこと、そして自分を密告した正にその女性と結婚したこと、翌朝からリハーサルがあろうと、朝まで遊ぶ歩く破天荒な放蕩ぶりだったこと。ドナトーニは生徒たちにマデルナの生きざまを話すのが好きでした。
そしてここでは、家族が死んで腐ってゆくさまを克明に見続けて描写せよ。そんな常軌を逸した愛情が作品を成立させています。曲の一等最後、あちらこちらの病巣で癌細胞が爆発し、本人が堪え切れない痛みに悶え、絶命するところで、振っていて決まって突然足が鉛のように重たくなり、何かに憑かれたようになります。足が地面にめり込むばかりで、手が力が入らないのです。こんな経験は初めてです。
振っていて頭をよぎるのは、2000年の夏、ミラノの外れの病院の地下の霊安室で一人、フランコを眺めていたときのこと。あのひんやりした空気と、空調の音。糖尿病でくさりかけていた紫色の足の先や、のどに3本も4本も通された透明のチューブ。ひゅるひゅると喉の奥で鳴る空気の音ばかりのかすれた声。
ベネチア人だったマデルナのため奏でられるベネチアの小唄は、次第に近づいてくる弔鐘とともに、健康な細胞を食べつくす癌細胞へと変化してゆきます。うごめく無数の細胞は虐げられ、小唄は悲痛な叫びをあげます。錯乱のなか長い間かけて弦が呑み込んでゆき、トロンボーンの壮絶な叫びの向こうで、まるで街で一斉に鳴らされた鐘のように木管のきしむ旋律は、意図的にリズムが熔けてなくなっています。
こんな作品を、どうして普通に演奏できるでしょう。演奏していると、誰もが狂ってゆくのがわかります。のめり込めばのめりこむほど、反吐がでるような不快感をもよおします。演奏し終わると、体中から滴る欝がびっしりとはびこっているのがわかります。最後の大太鼓二人は、叩けば叩くほどそれは辛そうな顔をして、でも文字通り命をかけて、皮が破れんばかりに叩きます。クライマックスでかき鳴らした弔鐘をすべて胸でだきすくめるとき、若い打楽器奏者の顔がいつも歪むのが、目に焼きついています。
これほど演奏が辛い作品にめぐり合ったことはありません。ずっと昔、癌の闘病生活から復帰したばかりのエミリオが、ミラノで振ったDuo pour Brunoに立ち会ったのを思い出します。自分で感じた痛みを音楽で再現するなど、一体どんな心地だったか慮ると、言葉もありません。日本で既に演奏されたかどうかは分かりませんが、恐ろしく細部まで細かく書き込まれた作品の質と異常なほどのリアリズムにおいて、後世に残る数少ない現代作品であることは間違いありません。
マデルナは最後、ミラノ・イタリア放送響の指揮者の地位にありましたが、亡くなるほんの数日前に演奏した、確かブラームスだかの最後の録音には、オーケストラとともに、マデルナのぜいぜいと振り絞るような呼吸音がずっと収録されていて到底聴いていられない、と友人が話してくれました。
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追記
悠治さんよりお便りがとどきました。
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ずっと忘れていたマデルナやあの頃のことを思い出しました
最初はドメーヌ・ミュジカルのアンサンブルと日本に来た時1961年 あの時クセナキスには会ったが マデルナは指揮を見ただけ
その後西ベルリンでRIASに雇われてアイヴスのTone Roadだとおもうけれど ピアノパートを弾いたときの指揮者がマデルナだった オーケストラは言うことをぜんぜんきかなくて それでも演奏は活力があったから あの感染力がはたらいたのかもしれない 練習の合間に話もしたけれど なんだったか
シェルヘンもベルリンではRIASしか指揮させてもらえなかった シェーンベルクのOp.16で 指揮台にたってかすかに手をうごかすだけで 音が息づいて来るのが見えるような
でも マデルナの場合は そういうカリスマ的なものではなくて
マデルナに最後に会ったのは 場所も時も忘れたがオーボエ・コンチェルトの演奏を聴いた後で 別人のように痩せて 座っているのも苦しそうだった
こういうことは どこかに書いておかないと だんだん忘れてしまいます 意味のあることではないかもしれないが
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こういうこと、つまりその場にいたら、その時代にいたら、当然のこととして受け止め、特に何も注意を払わなかったりする日常が、時間というフィルターにかけられると、まるで別次元のかなたに連れ去られてしまいます。何となくおぼえていられるのではないか、何となく誰にでも理解してもらえるのではないか、そういうことをぼんやり思うにしては、時間は途轍もないスピードで今を駆け抜けていってしまう気がするのです。だから、伝えられることは、伝えられるときに、伝えられるひとが、伝えておかなければいけない。
今回、ボローニャの本番の日に、ドナトーニと長く連れ添ったマリゼッラと一緒に、演奏会直前まで、ドナトーニの生前のヴィデオを映写しながら、テアトロ・コムナーレのきらびやかなフォワイエで、ドナトーニについて小さなコンフェレンスをしました。彼がミラノ放送響で自作のVociを指揮する姿です。意外なほど指揮が上手で驚きました。気がつくと、フランコの次男のレナートも駆けつけてくれていました。
「遠くからだけど、いつも君のニュースは聞いているよ。頑張っているね」
「10年に少し欠けるくらいか。すごく久しぶりだね」
余りに凡庸な物言いで書くのが恥ずかしいくらいですが、今回ドナトーニの巨大な楽譜を毎日ながめて過ごし、あらためて作曲はどれだけすばらしい職業かと痛感しました。楽譜をひろげると、日記よりもっと生々しく、すべての記憶、感情、空気、そんな全てが、活き活きと甦り、溢れだしてきます。
演奏会がおわり、マリゼッラとふたり、明りが落ちた夜半のホテルのロビーでしばし話し込みました。
「大げさかもしれないけれど、結局エミリオやフランコから学んだことを、次の世代に伝えてゆくことが使命だとおもっているんだ」
「何があっても、絶やしてはいけない。一度消えてしまうと、もう再現することは不可能だとおもう。それはもう再現ではなくて、想像の範疇だから。だから、どんなに辛くても、伝え続けてゆかなければいけない」
「オペラ劇場つきのオーケストラで、しかもこれだけ切り詰めた練習日程で、ドナトーニのような複雑な作品に対して一体何ができるのか本当に不安だったけれど、みんな信じられないほど誠実に、音楽にむかってくれた。心をこめて演奏してくれて、自ら感動してくれた。ぼくなんか本当にちっぽけで、何もしていない」
「どこも不況で、世知辛い毎日だけれど、悪いことばかりじゃない。こんな時代でも、音楽は捨てたものじゃない。現代音楽だから、と色眼鏡でみることもない。大変だけど、絶やさないで、とにかく頑張って伝えていかなければいけない」。