まるで生きているかのようなティカル遺跡のジャングルからフローレスにもどり、バスで5時間のベリーズ・シティーへ行きました。ベリーズは3ヶ月以内の観光旅行でも日本人はビザが必要です。グアテマラの旅行社にツアー代金を払う時、ベリーズのビザは国境で取るつもりだと言うと、何の問題もないというので契約したのですが、次の朝来た運転手は私に「日本人か、ビザは持っているか」と聞くので、私が「持っていない」と答えると即座にいやな顔をして、「1時間は余計に時間がかかる」とはき捨てるようにいうのです。「何、この人」とムカッとしながらバスに乗り国境に着きましたが、国境は長い列。バスを降りるとき、運転手に「私はフローレスからベリーズ・シティーまでお金を払ったのだから待っていてくれますね」と言うと、「知らん」とけんもほろろなのです。いくら抗議をしても「知らん、待たん」というばかり。私は頭にきたのですが、こんなことで時間をとってもますます遅くなるだけなので、なんとかなるだろうと長い列に並びました。
同じバスに乗っていたフランス人はビザがいりません。そのフランス人に「どうしてフランス人はビザが必要なくて日本人はいるの」と怒りをついむけてしまいました。すると彼は「それはフランスが力を持っているからだ」と答えたので怒り倍増。「くそー、これは単なる差別やー」と彼に言ってしまいました。
腹をたてながらも別室で50ドルを支払い外に出ると、なんとさっきのいじわる運転手が近づいてくるではありませんか。やはり契約通り待っていたのです。待つのならなぜあんな客を不快にさせることを言うのかまったく理解できません。グアテマラの観光業にかかわる人間のマナーの悪さにはもう閉口です。
国境からベリーズ・シティーまでは3時間、港から船で40分のカリブ海に浮かぶ全長7メートルの細長い島、キーカーカーに行きました。カリブ海を見ながらの椰子の木陰での昼寝は、これまでの1泊ずつの移動や、夜行バス、国境でのいざこざなどですっかり疲れ果てていた私をよみがえらせてくれました。
よく眠ったあくる日、すっかり元気になった私はシュノーケリングをするために船で出かけました。海は透明でたくさんのかわいらしい魚やエイを見ることができました。特にエイはまったく人間を怖がらずガイドに抱っこされているのです。このあたりは海洋保護区になっていて捕獲は禁止されているので、すっかり安心しきっているのでしょうね。夜になるとロブロスターを食べにホテルの近くのレストランへ。全長30センチほどのものでも25ドルです。焼きたてのロブスターと冷えたビールは本当に最高でした。
カリブ海に元気にしてもらい、次の日はベリーズ・シティーにもどり、ここから北に約50キロのところにあるマヤの遺跡アルトゥン・ハに行きました。公共のバスはないのでタクシーで50分です。運転手のマヌエルは陽気な黒人でレゲエを大音量でかけながら別れた妻がメキシコ人だったとかで、スペイン語でしゃべりまくります。私がラム酒が好きだというと途中で車を止めてラムとコーラを買いこみ「ラムはコーラで割るのが一番うまいんだ」とか言いながらすすめてくれます。レゲエにラムとすっかりリラックスした私をマヌエルはガイドもできるといいながら、アルトゥン・ハ遺跡をすみずみまで案内してくれました。
ここは紀元後7世紀ごろ栄えたといわれ、ふたつの広場と宮殿、神殿が残り一面緑の芝生におおわれたとても美しい遺跡です。マヌエルは「どうだ、きれいだろう、フォトフォト」と何度も写真をとってくれ、すっかりごきげんです。次の日は緑一杯の川に連れて行ってくれました。大きな浮き輪におしりを沈め、川を流されながらの水遊びです。涼しくてあまりの気持ちよさについうとうとしてしまいましたが、マヌエルがしっかり浮き輪をもっていてくれるので安心です。2日間専属運転手をしてくれ、「もう帰るのか」と不服そうに空港まで送ってくれました。
ところでベリーズの公用語は英語ですが、スペイン語を話せる人も多くいます。それはグアテマラやホンジュラスからの移民が多いためです。より安定した豊かな国ベリーズで働くため彼らはやってくるのです。外国人の私がスペイン語で彼らに話しかけると少しびっくりしたように、でもうれしそうに答えてくれます。港の前で小さな店を出すアンドレアは13年前ホンジュラスからベリーズに一人で来たそうです。そのわけを聞くと「ホンジュラスは貧しくて危険だから」と言い、クーデターに心を痛めているようでした。
確かにベリーズは他の近隣諸国に比べ豊かなのでしょう、働いている子供をみかけません。昼下がり公園に行くとたくさんの子供たちが楽しそうに海で遊んでいます。私がカメラをむけると次々とかっこよく海に飛び込んでみせ、女の子たちはびっくりするようなセクシーなポーズをとります。底抜けに明るい子供たちを見ながら、グアテマラで山の中にある家と湖を毎日4時間かけて往復しながら洗濯していた10歳のアナや、メキシコのチアパスで観光客にバナナを売っていた6歳のマウラ、4歳のパウチョ姉弟を思い出してしまいました。
あの子たち元気にしているかなあと思いながら、空港まで送ってくれたマヌエルに別れの挨拶をしてエルサルバドルに飛びました。夜8時に着き宿を首都のサンサルバドルの旧市街にとりました。エルサルバドルは危険だからと友人にも注意されていたので、少し緊張しながらの入国でした。
次の日、観光案内所を探しに街に出ました。ひょんなことからJAICA(国際協力機構)の仕事で来ているという女性に会い、宿の場所を聞かれたので答えると、その場所は危ないから変わるように勧められました。彼女は街を歩くのは危険だと運転手付きの車で移動しているそうです。私はその話を聞き、ここはそんなに怖いところなのかとびっくりしてしまいましたが、とりあえず観光案内所でもいろいろ聞いてみようと行ってみました。そして適当な宿の紹介を頼むと、きれいなパンフレットを見せながら紹介してくれたのは、なんと私のホテルのひとつ筋違いでした。「なーんだ、私のホテルはJAICAの彼女がいうほど危険な地域ではなかったのか」と彼女と現地の人との感覚の違いにちょっと驚きました。そこでホテルを変えることはせず、そのまま街に出ました。
中央市場はまるで迷路のように道が入りこみ、大勢の人でごったがえしています。それにしても物価が安い。ここの通貨は米ドルなのですが、りんごが1個25セントで、きゅうりも小さいですが20本50セントです。700ミリリットルは入る大きなコップのフレッシュジュース80セントです。私の泊まったホテルもバス、トイレ、テレビつきの大きな部屋で12ドルです。
この国はインフレ率が低く中米でもっとも物価が安い国のひとつだそうですが、日本の1年分の生活費でここだと5年は暮らせるのではと思いました。
次の日はラ・プエルタ・デ・ディアブロ(悪魔の門)という景勝地に行きました。小高い山を登ると360度の眺望で緑いっぱいの美しい自然が広がっています。真っ青の空と、きれいな空気ですっかりリフレッシュ、入国したときの緊張感もほぐれていました。
あくる日はここにも残るマヤの遺跡ホヤ・デ・セレン、サン・アンドレス、そして紀元前12世紀から紀元後5、6世紀ごろまで続いたチャルチュアパ文化の中心地だったタスマル遺跡やカサ・ブランカ遺跡の4箇所を回りました。それぞれ規模は小さく、まだ調査中のところもあり、いまだにあとでつけたスペイン語の名前で呼ばれるように全容解明は困難らしく、まだまだ時間がかかりそうでした。
その中のひとつカサ・ブランカ遺跡の展示室のとなりに日本のろうけつ染めの工房があり、入ってみると、2人のエルサルバドル人の女性が作品を作っていました。そのうちのひとりのクルスさんが「日本の方ですか」と私に聞いてきました。私が「そうです」と答えると、この工房はJAICAから派遣された日本人が作ったもので彼女たちにろうけつ染めを教え帰国、今は彼女たちだけで運営しているそうです。クリスさんは「日本にはとても感謝しています。ろうけつ染めのブラウスやかばんがここに来る外国人によく売れて、私たちは暮らしていけるのです」と言います。作品はデザインもとても美しく「私も記念に一枚買います」というとクルスさんは「染めてあげますよ、時間があまりないので簡単な模様になってしまいますが」と断りながら、きれいなぼかし模様の花柄の手ぬぐいを染めてくれました。ありがたくお礼を言い、腕にかけて乾かしながら、工房をあとにしました。私の友人たちも何人かはJAICAで働いていますが、友人たちの仕事の具体的な成果を見たような気がしてとてもうれしかったです。
危険だといわれたエルサルバドルではなんの被害にもあわず、陸路でグアテマラ・シティーに戻り、コロニアル時代に作られたという水道橋を探して歩いていた時、とうとう遭遇しました、ピストル強盗です。このあたりは日本大使館などもあり比較的安全だといわれている地域です。大きな道路のそばには公園がありサッカーに興じている人がいて、近くの道路はたくさんの車が走っています。しかし、教えてもらった道を曲がったとたん、急に通りは細くなり小さな木立があり、完全にまわりから死角になってしまう空間があったのです。一人の若い男が「チナ(中国人)? ハポネサ(日本人)?」と聞いてきました。グアテマラ人はほとんど声をかけてくることがないので珍しいなと思いながら「ハポネサ」と答えると、「どこに行くの」と聞きながら近づきじっと私のベルト式のかばんを見ています。これはやばいのではと思ったとたん、シャツの下に隠したピストルをちらっと見せたのです。私はびっくりして「とうとうおうてしもた」と思ったのですが、「アクエドゥクト(水道橋)をさがしているの、アクエドゥクトはどこ」と言いました。すると男は「ノセ(知らない)」と行ってしまったのです。「助かったー」私は一目散に男の反対側に走りました。ここでは水道橋はアクエドゥクトといわずにプエンテ(橋)というらしく、もし自分が知っている場所だったら、教えると言って道案内をしながらすきを見てかばんを奪うつもりだったようですが、知らなかったため行ってしまったのでしょう。今考えるとあのピストルは本物でなかったのかも知れませんが、全く予想もしないところで会ってしまいました。比較的安全だといわれている場所でも突然死角になる場所は現れるし、世界中で安全な場所などどこにもないのだと思い知りました。それにしても私はどこまで悪運が強いのでしょう、われながら感心してしまいます。これで力を得た「天下無敵の大阪のおばちゃん」の旅はこれからも続きます。