1960年から1990年までの30年間。私が生まれ、物心がつき、仕事を得てひとり立ちするまでの時間。無意識のうちに大きな影響を受け続けたこの時代を、もう一度味わってみたい。そんな思いが発端でした。送り手としてその時代を過ごした片岡義男さんが見ていたもの、感じていたこと、時代と密接に関わりながら書かれた作品を通して、もう一度この時代を歩いてみたい。まだうまく言葉にできていない夢をもとに、インタビューをはじめることになりました。
――今日お会いするにあたって、年表をつくってみました。その年におこった事件や流行したこと、右はじに、その年に出版された片岡さんの著作名を入れています。そして、これが質問のリストです。
さて、どうしよう
――リストのはじから聞いていってもいいですか。
きちんと覚えている人は、はじから聞いていくとはじから答えてくれるのでしょうけど。僕は何も覚えてないからな・・・。60年代。始まったころは学生です。何でもない、「ただ月謝を払っているから学生です」という感じ。
――法学部ですね。
ええ。試験の日が早くて、発表も早くて、それで決めてしまった。あ、受かったって。体裁とか学校に行きたいわけじゃなくて、時間を稼ぎたかった。
――でも、違う意味でその時期勉強したのではなありませんか。
勉強は何かしたでしょうね、きっと。自分を材料に自分をどんどん特化したということかな。4年かけて自分を蒸留して1滴か2滴、それで行くしかないと覚悟を決めて卒業ですよ。ほんとうにバカだったな。どうしよう。
――そういうことは後になってみないと分かりませんよね。
自分がどれだけ馬鹿か?(笑)でも、うすうすは分かっていたな。1960年、大学2年生。
――最初にアメリカに行ったときのことを聞かせてください。「日本に居ると決めてからアメリカに行った」と小林信彦さんとの対談でおっしゃっていたので。
最初は14歳くらいです。見学しに行った。視察です。
――最初に降り立ったのはどこだったのですか。
ミッドウェイです。軍用機で立川から。ミッドウェイまで行って、そこで飛行機が故障してこの先には行かないと言われて、3日くらい後に別の飛行機で、ハワイに帰ったのです。
――行くことに迷ったりはしなかったのですか。
素直に行きましたよ。無鉄砲に何も考えない子どもでしたから。どんな印象もなかったな。
――日本に居ると決めてからアメリカに行ったのは、大学に入った頃かなと思いました。
いや、卒業してからです。要するに言葉の問題なのです。英語だとあくまでも具体的で現実的なのです。話し言葉だし、基本的には。人と人との関係のなかで具体的に何かができていく、なされていく、アクションを伴うのです。もちろん小説のように書かれた言葉を読むということもあるのですけれど。日本語の書き言葉、日本語に関する認識がもう少し深まるのです。子どもなりに。書き言葉の世界があるのです。話し言葉の他に。これはものすごく大事なことなのです。
小説を書こうとして書けない人がいるでしょう。それは日常の言葉、話し言葉が言葉の全部だと思っているからです。その外に、書き言葉があるのです。いつもの言葉の外に出て、もうひとつの言葉に入っていく、それがわからないと書けない。
そういう思いは、意識のすぐ下あたり、意識と無意識の中間あたりにおきてくるのです。言葉は、どちらかを選ぶかになるわけですから。英語は、何がどうすればどうなるかですからよく分かるわけです。アクションだし、人と人との具体的な関係なのですから。そうじゃない世界、日本語の書き言葉の世界というものがあるのです。・・という話が身に沁みて確定したのは、小説を最初にを書いたとき。「白い波の荒野へ」です。2日くらいで書いたのですが、その2日間がたいへんだった。どうしてかと言うと、書き言葉のなかに正式に入っていくのがたいへんだったから。それまでいろんな文章を書いていたけれど、片足は話し言葉にかかっていました。書き言葉として、できる限りきっちりした、妙な曲線の無い、妙なほつれの無い、角が真四角という、そういう書き言葉のなかに入っていかなくてはならなかった、それがたいへんだった。
――それは、獲得できたと思ったのですか。
とりあえず、スタートはできたのです。書き終えてから、1回書き直しました。ほとんど変わってなくて、言葉を整えただけのように言われたのだけれど、そういうことじゃなくて、日常の話し言葉的にだらしなくほつれている部分を整えたのです。その時の自分にできるかぎりきっちりと。気持ち悪くない程度に精巧に。
『C調英語教室』(三一書房 1963)が23歳、話し言葉に完全に片足がひっかかっています。しょうがないよね、最初だから。これが出た年から起算しても小説が出るまで10年。ちょうど10年かかっている。そんなふうに捉えた方がおもしろいです、僕としては。話し言葉からちょっとだけ書き言葉に寄った言葉で文章を書き始めるわけです。それもきっとモラトリアムですね。修行というか。原稿料をもらいながら練習している。書いていけば気がつくことがあるのですから。
それが60年代だったということが大きくてね。60年代ってすぐ終わるんです。ものすごく激変の時代だから、どんどん終わっていくのです。次の時代になっていく。68年位には完全に次の時代になっているのです。だから60年代半ばを過ぎると何か終わっていくなという感じがありました。今までの、冗談みたいな文章を書いていた日々が終わっていくなという思いがひしひしとした。
――そう感じない人もいたでしょうね。
そういう人は、時代の裂け目に落っこちていく。時代が終わっていくというのを、いろんなところで感じるのです。次の時代にむけて飛んだのが71年の『ぼくはプレスリーが大好き』(三一書房 1973)書き始めてちょうど10年めくらいです。絵に描いたようだよね。小説以外の文章で書き言葉に入っていくために書いた作品。日常とはきわめて遠い題材を選んでいます。最初に書いた波乗りの小説もそうですが、神保町で遊んでいた自分とまるで反対の状況を選ばないと、書き言葉の世界に入っていけなかった。そういう事を無意識に自覚しないでやっていました。頭で考えなかったからよかったのかな。
瀬戸内で過ごした経験が非常に大きかったかもしれない。海で泳げば海や空を全身で受けとめるように、東京でモラトリアムの大学生をやっているとモラトリアムということを全身で受けとめるわけです。文章を書く仕事を始めたりすると、文章を書くということを全身で受けとめるわけですから。
――モラトリアムというと、何もしないというイメージを抱きますが。
全身のこととして何かをやっていたのかもしれませんね。瀬戸内から東京に戻ってきてからは、しばらくつまらなかったな。唯一の楽しみは、やはり全身的なことなのですがアメリカのポピュラー音楽を聴くことだった。ロックンロールの始まりのカントリーやジャズ、全身で受けとめて非常に幸せな感じになるでしょう。頭で考えなかったから良かった。
――60年代はテディ片岡の時代です。「テディ」という名には、何か由来があるのですか。
あります。サリンジャーの9つの短編、あれの最後のタイトルが「テディ」というのです。名前を決めなければいけないという日にその本をたまたま持っていたのです。「テディにしましょう」「どうして?」「サリンジャーの本のここにあります。今見ていたのです」って。
――書かれていたものはテディという名前にあっています。
人の感じにも合っていたのじゃないかな。何だかわからない、トッポイ感じ。
――『僕はプレスリーが大好き』から片岡義男名義ですね。執筆していたのが1968年ごろ。今、ヒッピーや学生運動のことで1968年がちょっと注目されてます。そういうこととは関係なくせっぱつまった思いというのがあったのですか。
偶然でしょ。生まれたのも偶然ですから(笑)。要するに遊んでいた時代にけりをつけなければと思ったのです。
――そのための題材がプレスリーなのですか。
音楽です。これも全身性の問題です。全身で感じることといえばそれしかなかったから。
――けりがついたという感じはありましたか。
忙しかった。次の時代が来ているわけですから。いろいろ出てくるし、いろいろ消えていくし、いろいろ変わっていく・・前の時代を引きずりながら、次の時代も重なっていくのですから二重に忙しいのです。73年くらいには「ワンダーランド」が始まるわけでしょう。
――最初に書いたものについておしえてください。
翻訳です。60年か61年。神保町に洋書の露店があって、大学から都電で1本だし、よく行っていたのです。そこで小鷹信光さんと出会った。彼はすでに仕事をしていて。露店の親父を介して知り合って、つきあいが始まって、「翻訳してみる?」という話になって、「本当にやる?」って何度も聞かれたな。僕は「うん」と言えば「うん」なんだけど。ただ返事をしているだけに見えたのかな。それでリチャード・デミングの短編のテキストをくれた。できたのを小鷹さんに見てもらって、そのまま編集者に渡してもらって、掲載された。一語一語直されるのは厭だな、なんて思っていたのですが、そのままある日ゲラの直しが来た。校正の仕方は母親に聞いたかな。彼女は昔教授の秘書をしていたので、知っていたのです。
――ほとんど直しもなしに。
「しいて言えば漢字が多いかな」と言われたくらい。その瞬間に僕は書き手になってしまった。根拠なんてないし、実績なんてないけど。さっきの話と関係するけれど書き言葉のがわに気持ちとしては入っちゃった。
――それまで書いたことがなかったのに、苦労もなく。
置き換えれば良かったから。その当時、僕が知っている程度の日本語に置き換えればいいのですから。もとの作品というのがその程度だったのでしょう。
――題名をおぼえてらっしゃいますか。
覚えていないな。『マンハント』に載りました。
――そして、他の記事も書かせてみようということになるのですね。
ごく気軽に、書かせてみたという感じじゃないかな。それはそれでたいへん幸せなことなのです。すきまの多い自由な時代。書き手と編集者の2人の関係で話が決まっていく。書いたものが良ければ、活字になっていく時代。おそらく、すぐに連載が始まっているはずです。
――『もだんめりけん珍本市』(久保書店 1964)になったコラムですね。
送り出しがわのスタイルとして、本にするというのが最初からはっきりと傾向としてあった。年表を最初から細かく追っていくと、10年でひと区切りついている。
――でも、書き続ける10年というのは、短くはありません。
そうだね。でもあっという間だった。具体的な話と、言葉の問題とがうまくからみあった年表ができるとおもしろいと思う。具体的な細かい話を順番に追っていくとおもしろいかもしれないね。今度はもう少し緻密に、日めくりのように。
――どこからはじめましょうか?
1960年、20歳の時から。思い出しておきます。