しもた屋之噺(98)

妙に偏った印象をのこす一月が過ぎようとしています。月初めに東京にもどり、中旬をイタリアですごし、今週初めに東京に戻ってきました。今は望月みさとちゃんのオペラの手伝いをしつつ、三軒茶屋で単身赴任生活といったところ。

ところで、田園都市線で練習にでかけようとすると、毎日のように遅延情報がでています。大方が人身事故で、きのうもあちこちで3件ほどあったでしょうか。歌い手さんからも、電車がとまって練習に間に合わないかもと連絡がありました。今日も池袋まで電車に乗ろうとすると、人身事故により、と電光掲示板にながれていて、暗い気持ちになりました。

当たり前のように遅延するイタリア国鉄、特に南からの長距離列車は、旧型車両の故障やら、線路の凍結をはじめ、単に駆け込み客を収容する小さな親切がつもり積もって、ミラノに着くころに3、40分の遅れになっていたりします。イタリアに暮らして15年、人身事故の遅延というアナウンスは、少なくとも自分では聞いたことはありません。宗教観、死生観の差といわれればそれまでですが、どうしてこれほどの人が、電車に飛び込まなければいけないのだろう、そんなことを考えつつ、東京で毎日練習に通っています。

わたしたち日本人は、生に対する執着心がそれほど薄いのでしょうか。昔からの風習をはじめ、現行の死刑制度にまで話を広げるつもりはありませんが、外国暮らしが長いせいか、百歩譲って、人に多少の迷惑をかけてもいいから、せっかく貰った命なのだから、とにかく頑張って生き抜いたらいいのに、そんなことを思ってしまいます。日本に住んでいたら、この気持ちも変わってしまうのでしょうか。

中旬にイタリアに戻り、中部イタリアのペスカーラに一週間近く滞在して、音楽院の卒業試験の招聘試験官をしていました。2年ぶりに会った院長のブルーノは、もう80歳代半ば。数日、インフルエンザで床に伏せていた所為か、目の周りはぽっかりと窪み、青白い顔に窪みの奥の充血した眼が力なく際立ち、驚くほど顔の肉がこそげ落ちていて、一緒に審査ができるのか不安にかられました。それでも試験が始まれば、音楽という別の血が巡りだすのか、顔色が瞬く間に変わってゆくのには驚きました。

そんな彼から毎日のように、学校裏のステーキハウスに昼食に誘われ、家庭の話から、学校の話、政治の話から、音楽の話と、それはたくさん話してくれました。生きることの強さと素晴しさを痛感し、感動がひたひたと押し寄せてきます。

自分がミケランジェリに習ったとき、ほとんど口では何も説明してくれず、ただ黙って弾いてみせてくれた。確かに弾いているのだけれど、全然指が動いていないんだ。説明してくれないから、どうして音がでるのかすら分からない。一ヶ月近く、熱にうなされたように、必死に先生の真似をしながらパッセージをさらったものさ。でも、自分が弾くとどうしても指が動いてしまう。もう諦めかけていた頃、ふと分かったんだ。鍵盤のなかで弾くということをね。で、ミケランジェリに見せたときの心地といったら、天にも昇るようだったよ。鍵盤のなかのアクションだって今世紀に進歩した技術だろう。マンゾーニはもうピアノは進歩しない楽器だなんて抜かしたけれどピアノはまだまだ進歩するのさ。ペダル一つ取ったってそうだろう。興味も尽きないから勉強も絶やさない。このところ、今さらっているのは、エリオット・カーターと、彼の師とでも呼べるアイヴスさ。本当に素晴しい作品ばかりで、驚くことがたくさんある。85歳の巨匠の口からそう聞くと、感慨をおぼえます。

ミラノの慌しい生活に慣れていると、どうしてペスカーラでは毎日昼休みに2時間も取るのか訝しく感じた程ですが、音楽院長からしてこの調子ですから、察して知るべきでしょう。
ホテルやオーケストラとの練習の合間に、大江健三郎の「水死」を読み、父と息子とは何だろうとずっと考えながら、週末朝一番の飛行機でミラノに戻り、学校に直行しました。授業の後、もう日がとっぷり暮れてから、ドナトーニが昔住んでいた、ランブラーテのアパートを10年ぶりに訪ねました。

ランブラーテ駅に降り立ち、すっかり変わってしまった駅前のロータリーを背に、パチーニ通りをピオーラへむかって歩いてゆきます。こんなに遠かったかと訝しがりながら暫くゆくと、懐かしい交差点があって、右手奥にはくすんだ感じの古い喫茶店が見えてきました。日曜の早朝、フランコがブレッシャに教えにゆくのに同乗するべく、7時きっかりに玄関を出てくるのに間に合うよう、寒いときによく暖をとらせて貰ったのが懐かしく、それを眺めながら左に折れると、その昔フランコが好んで通った南の人らしい、いつも黒い服に身を包んだ豊満なナポリ人のオバちゃんの食堂があって(ああお前かい、マエストロのところの!といつも親しみをこめて呼んでくれました)、その隣には古めかしいブティックが昔のままありました。

アパート下で、「ドナトーニ」と書いてある呼び鈴を押し「ヨウイチだ」というと、懐かしい声が「3階だよ」と返ってきました。入口のガラス戸を開くと、目の前に10年前と同じ、ガラス張りの管理人の部屋がみえました。夜で人気はなかったけれど、その昔ここで管理人と話し込み、「最近じゃマエストロを訪ねる客もめっきり減って、お前と家族と出版社の人くらいになっちまった。寝たきりだし訪ねてきた事すら分からないかもしれないから」、と聞いて、胸を締め付けられたのを思い出しました。薄暗い廊下に不釣合いな、煌々と明るい赤壁の小さなエレベーターで3階に着くと、15年前に初めてここを訪れたときと同じように、大きな体格で笑顔を湛えた顔が待っていてくれました。

15年前ここでフランコに会ったときも、初め言葉がでませんでしたが、彼が亡くなって10年、久しぶりにここに戻って長男のロベルトに会っても、同じように言葉がでてきませんでした。ロベルトに最後に会ったのは、霊安室を出て入れ替わりに彼が次男のレナートと母のスージーと入ってきた時ですから、10年近く前のことになります。

ほら、これだよ。手には、ドナトーニが唯一保管していた1953年作曲の弦楽のための交響曲のスコアが携えられていました。どこからも入手の方法がなく、レナートに頼んで、死後片付けたままだった段ボール箱を丹念に調べて貰って漸く探し出した楽譜を、ミラノに住むロベルトに手渡してもらったのです。

ちょっと見せてもらうだけでいい。この時間ではもうコピーも出来ないだろう。明日東京に発ってしまうから、こんな大切なものを持って帰りたくないと言うと、何を言っているんだ、お前が持っているなら、ここに置いてあるのと同じこと。持ってゆきなよ。少し恥ずかしそうにそう言いました。

アイルランド人貴族だったスージーの影響で、その昔ミラノでアイリッシュパブなどを営んでいて、ビリヤードが得意なレナートが、スマートでスタイリッシュなのに比べると、ロベルトは丁度フランコと同じ背格好で、服装もスタイリッシュとは言えないところも父親似で、何時もはにかんだ表情で微笑んでいます。声色はスージーに似てなくもなく、フランコのヴェローナ訛りも交じっているのは、兄弟二人ともそっくりです。

この辺もすっかり変わってしまった。角の喫茶店、覚えているだろう。あそこも今じゃ中国人がやっている。階下の旨かった食堂、あそこも全部入れ替わって今や中国人ピザ屋さ。昔のよき面影はどんどん消えてゆく。

昔と同じ玄関扉には、黒地に金で書かれた無愛想な「フランコ・ドナトーニ」の表札がそのまま残っていました。その昔、玄関にはフランコにそっくりな母親の写真が飾ってあり、何百という帽子が犇いていた暗い廊下は、今や明るいパステルカラーに塗替えられ、昔フランコの仕事部屋だった玄関脇の長細い部屋、潔癖症なほど整頓され常に薄暗かった仕事部屋(鉛筆や定規まで決まった場所にきちんと並べてあった)は、明るい蛍光灯の下、がやがやと雑然と家具が並び、手前には女児の靴が見えて、傍らの丸腰掛に黒ウサギがちょこんと座っていました。

彼女はね、まだ外で仕事なんだ。彼女の連れてきた女の子にね、いま肉を買いに行って貰っているところさ。

あの昔のストイックなまでに抑圧された芸術家の部屋からは想像も出来ない、生活感あふれる庶民的な匂いに包まれていて、フランコもきっと喜んでいるに違いないと思いました。フランコとロベルトは、大江健三郎の本ではないけれど、決して解り合える関係ではありませんでした。フランコは暴力的なほど強靭な存在で、とりわけ繊細なロベルトはそれに押しつぶされて育てられてきました。だから、フランコに輪をかけて内向的なロベルトは、サンスクリットに熱中しインドで学び、アデルフィ社で難解な本の出版に携わるようになりました。でも最後まで、父との距離は縮まなかった気がします。

何か不思議な気分だな。あの家がこんな風になるなんて。でも、やっぱり昔のこの家の匂いがする。時にはさ、フランコがその辺をひょろひょろ歩くのが、見えたりするんじゃないのかい。

それはないな。でも見えたら、やっぱり嬉しいだろうな。

(1月29日 三軒茶屋にて)