今年は小倉朗没後20年で、10月18日に室内楽コンサートがある。
1948年頃だったか、團伊玖磨にハーモニーの基礎を習っていたとき、鎌倉由比ガ浜の貸間で、レッスンの日にも、先生はしごとで不在ということがよくあった。鍵もなく、だれもいない部屋に入って待ちながら、かってに押入をあけて積み重ねられた楽譜をながめていると、ドアがあいて、麦わら帽子の日焼けした人が顔を出し、おや、こどもがいるな、と言ったのが、小倉朗との初対面だった。
数年後、小倉朗の『舞踊組曲』オーケストラ版初演の夜、その頃の習慣で、作曲家たちが日比谷でのコンサートの帰りに新橋の「鮒忠」の二階で飲みながら、聞いたばかりの仲間の新作を論じ合い、小倉朗は自分のスコアを筒のように丸めてテーブルを叩いていた。帰りの電車は鎌倉までいっしょだった。年譜によると、それは1954年の1月だった。柴田南雄に習っていた時だと思うが、まだ15歳の少年がなぜそんなところにいたのだろう。
さらに数年後、浜辺で向こうから歩いて来た麦わら帽子の小倉朗に出会って、作曲を習うことに決めた。ところが、かれはその頃海釣りに熱中していたので、まず習ったのは自転車の乗りかた、その後は夜の海岸に出て、魚はほとんど釣れず、帰り道の魚屋で魚を買って、かれの家で日本酒を飲む、そんな日々のなかで、ベートーヴェンのスコアをピアノで弾くことを習い、オペラ『寝太』や、民謡によるオーケストラ曲、合唱曲などの書いたばかりのスコアを見せてもらい、現代音楽批判を聞かされ、作曲ができなくなってしまった。
その『寝太』の初演のために練習ピアノを弾いたのがきっかけで二期会に雇われて数年間オペラの練習や歌や合唱の伴奏をして生活し、また偶然から現代音楽のピアニストになったので、後から考えれば、こうして逸れていった軌道は、作曲の生徒として順調に進むよりはまなぶことも多かった、その結果かれの音楽からも離れてしまったにしても。
小倉朗は1960年前後に、わらべ唄による合唱曲集をいくつか書いている。呼びかける言葉のリズムと抑揚が自然に唄に変わる時うまれる単純なメロディーを重ねたり、ずらしたり、また音程をひろげたりせばめたりして色調を変化させているが、一つの響きのなかで停まっては、ページをめくるように別な響きに切り替わる。区切られた色の平面を組み合わせた音楽の創りかたは、小倉朗が追求していたはずの古典的な構成への意志とはちがう、もっと直感的な、瞬間と色彩へのこだわりに見える。かれが批判していたストラヴィンスキーの『春の祭典』や『パラード』のサティのキュビズムに近い。後年のオーケストラ曲のなかにあるような長い旋律線は、じつは限定された音と音程の多様な変容で紡がれ、持続する低音につなぎとめられている。リズムにのってうごくかたちを映してゆれる音楽の表面と、それを織り上げる古典的な技法は、その底に半透明な層になってひろがる響きの持続に包まれている。ドミナントは音楽家の心だ、と小倉朗は言った。だが、かれの音楽のドミナントは、古典的なドミナント、解決に向かって音楽をうごかす劇的な物語をもったドミナントというよりは、それぞれの場面を彩る中心的色調としてのドミナントのようにきこえる。
1937年の『ピアノ・ソナチネ』では、ほぼ同時代のフランス新古典主義の音楽に近い感覚的な音楽だった。その後ドイツ古典の模写をしてオグラームスとからかわれた時代の作品はほとんど破棄されているから、知ることもできないが、1953年に書かれた『舞踊組曲』は、バルトークに触発されたと言われている。それもアメリカに亡命した1940年代のバルトークの最後の時期で、戦時の空白による時差を考えれば、ほぼ同時代の音楽と言ってもいい。反前衛どころか反時代のポーズをとっていた小倉朗は、やはり時代とともに歩んだのではないだろうか。時代のせいで遅い再出発ではあった。それに作品の数は多くはない。細部までみがかれ、削られて、簡潔にしあげる、それは職人芸とも言えるが、わらべ唄のようにあそびへの没入が表面に現れてくるまで洗練するプロセスでもあったのだろうか。
その頃作曲家たちは貧乏だった。小倉朗の年譜には、生活に困窮する、ますます困窮する、というような記述が数年ごとに見られる。根っからの都会人で繊細なひとだったが、べらんめえにふるまっていた。書けない、というのが口癖で、いかにも説得力のある口調でそれを言うので、弟子までがそういう気分になるほどだったが、古典的な意味での「主題」、詩の最初の一行のように、核になる音のうごきを見つけると、しごとは集中して速かった。本人は構成技法の修行の成果と思っていたのだろうが、むしろ直感と瞬発力、ほとんど体力の問題とさえ言いたくなる。そういう創造の時が、『舞踊組曲』から70年代の終わりまでつづいた。1980年の『チェロ協奏曲』以後は、健康も衰えて、音楽を作曲するかわりに、絵をかくのに熱中し、個展をひらいたほどだったが、もう作曲はしなかった。絵はたのしみだったが、音楽にはあまりに真剣だったのかもしれないし、それよりもかれの音楽は身体と深いところでつながっていたのだろう。
20年がすぎて、小倉朗の音楽にまた出会うとき、時間に洗われて、いままで見えなかったなにかが見えてくるだろうか。それは加藤周一がかれの音楽に見たような「形になった感情」かもしれないし、形や技法が消えた後の持続する響きかもしれない。生は苦しく、死もまた苦しい。音楽は、水面に射し込む光だったのか。記憶のなかの時間は年代記のような線ではなく、順序もない点が集まり、また散っていく。