一昨日からにわかに寒さが緩んだと思うと、急に鼻がむずがゆくなってきました。この季節に日本にいるのも珍しく、花粉アレルギーも、はじめの1分くらいは懐かしささえ覚えるほどでした。今月は望月みさとちゃんのオペラの下稽古に連日通いつつ、朝晩机にむかう単身赴任生活でしたが、数日前に家人と息子が一時帰国して、いつもの慌しい日常生活に戻りました。
96歳になる祖母の様子が気にかかっていて、1月末に帰国早々、湯河原の叔父宅に顔を出しました。タクシーを降り、自転車がようやく通れるほど細い辻を一本はいると、子どものころから見慣れた庭と家があります。その昔、亡くなった祖父が庭を丁寧に手入れして、毎朝池の鯉に餌やりをしていたのが、叔父に替わった程度の印象で、子どもたちが隠れん坊をした居間の掘りごたつも当時のままですが、部屋の至るところに飾られた姪や甥の写真や絵、手紙などが、華やぎを添えます。
そんななかで、息子と同じ5歳の姪を連れて実家に寄っていた従弟と話をしつつ、祖母がデイサービスから戻るのを待っていました。週に3日通うデイサービスは、食事のみならず、温泉で気持ちよく入浴できるので、祖母の痴呆が今ほど進むから定期的に通っているものです。車が止まる音がして、叔母が、「ああ、おばあちゃんが帰ってきたわよ」と言って玄関にでてゆき暫くすると、前かがみで倒れそうになりながら、叔母と明るい介護の女性に支えられ、覚束ない足取りで祖母が家に戻ってきました。
「杉山さん、お孫さんが会いにきてくれたよ」
「うん」
「よかったねえ」
「うん」
イタリアに住んで、そう度々会うこともないながら、最近、祖母がどこか子どものようなあどけない表情を見せるのに気がついていましたが、半年ぶりに会うと祖母は、以前よりその印象がずっと強くなっていて、頷く姿も、傍らで眺める5歳の姪にそっくりに思われました。半年前はまだ徘徊していて、その上すぐに倒れるために、身体中青あざだらけだったのが、今や寝たきりの生活に於いて、怪我の心配は殆どなくなり、思いがけなくすっきりした顔を、こちらにもたげるのでした。暫くこちらをじっと眺めては、顔を子どものようにくしゃくしゃにして、「何が何だか、わかりません」。ユーモラスで可愛らしい声で、繰り返します。
半年前に会った時は、このイタリアから訪問客を、或いは分かっていたのかも知れません。が、今は最早、ほぼ乳白色の記憶に浮かびあがる浮島の中、すこぶる元気に暮らしているに過ぎません。ずっと面倒をみている叔父たちの苦労は察するに余りありますけれども、96年間の長きにわたり病気もせずにここまで来て、頭の自動フォーマットスイッチが入って、もうすぐそれも恙なく完成する姿を見ていて、何て幸せな人生だったろうかと感慨深く思います。
「曾おばあちゃんのおてつだいするの」
「こっち、こっち」
まめまめしく姪が祖母の世話を焼いているのを眺めていると、半年前までは、祖母の方が5歳の姪より口も達者だったかも知れませんが、この半年で明らかに二人の言語能力が描く曲線は、見事にクロスしているのが分かります。気の遠くなる昔より、人が連綿と重なり合い、繋がっているのを実感します。
小田原生まれの祖母が、「この度、横浜から嫁いでまいりました。右も左も判りませんので、どうぞ宜しくお願い申しとうございます」。
時代劇の残照なのか、何故ゆえこんなマドロッコシイ言葉を話すのか不明ですが、こんな按配でひょうひょうと話すさまは、愛嬌にあふれています。そうして、皆が他の部屋に下がって部屋に一人になると、祖母は一人で演説を始めるのです。何を話しているのかと別室で耳を澄ますと、途端にやめてしまう。こちらが諦めると、すぐに淀みない演説を再開します。まるでテレビリモコンの遠隔操作そのままで、不思議な光景でした。呆けは悲しいことですが、この96歳の祖母に関して言えば、自分でも意外なほど幸せな印象を持ちました。
この一ヶ月間の単身生活中のほぼ毎日、ミラノで暮らす息子に、イタリア語と日本語でメッセージを書いていました。この3月で5歳になる息子は平仮名、カタカナに馴れたところで、まあ勉強半分、家族のコミュニケーション半分といったところ。イタリア語はまだ読めなくて、家人が代読していました。不当な裁判で絞首刑になったケン・サロ=ウィワの話など書くこともあって、一体どのように読まれていたのか定かではありませんが、暫くしてイタリア語と日本語で返事が返ってくることもあって、これも母親による聞き書き。
パパ いいてんきですか。さむいですね。
それでもチョコレートくれましたか。
チョコレートをぼくにください。
あなたのぜんぶじゃないよ。
ぼくにもパパにもママにもちょっと
みんなでたべましょう。
特に新鮮だったのは、普段イタリア語でコミュニケーションを取っている息子と、ほぼ初めて、お互い日本語で意志を交換したことで、大体同じ内容をイタリア語と日本語で書いて寄越すのですが、そこには微妙ながら、彼にとっての日本人的社会観、イタリアの幼稚園で学んでいるイタリアの社会観が反映しているのです。
彼にとって現時点での日本語は、まず母親とのコミュニケーション手段のせいか、無意識に自己が強く出てくるのに対して、イタリア語では、より社会的な表現になってエゴが薄められて出てくるのは、恐らく彼が友達との付合いの上で、肌で覚えた表現方法なのでしょう。これでは日本人、イタリア人本来の志向と反対だとも思うのですが、何しろ社会生活の経験が5年未満ですから、今後どう変化するのは全くわかりません。
このところ毎日のようにオペラの稽古で顔を合わせている演出家の粟國さんも、幼少からローマで育って、お父様とはイタリア語、お母様とは日本語の環境で暮らしてきたそうです。それにも関わらず日本語が本当にお上手でびっくりしたのですが、二人だけで話していると何となくイタリア語になってしまうのです。自分が最初に仕事で使い始めた言葉で、仕事上で話すのはイタリア語が今でも一番気楽なこともあるでしょうし、彼の特にうつくしい空間の使い方において常に保たれている左右対称のバランス、情熱的かつ直截的表現ながら、直情的な下品さを極力排除する舞台作りが、イタリアで培われた彼の人生とは切離せないであろうことを、無意識にいつも感じるからでしょうか。