片岡義男さんを歩く(3)

テディ片岡というペンネームのきっかけになった『ナイン・ストーリーズ』を柴田元幸訳で再読しました。参考に氏の編集する『モンキービジネスVol.3』を読んでいて、柴田氏と岡田利規氏の対談の中に印象に残る一説があったので引用してみます。

<岡田> 僕は小説というものはストーリーやテーマに還元しきれないものがいいと思っていて、『ナイン・ストーリーズ』って、まさにそれそのものだと思いました。しかも、それでいて、たとえばテーマとかストーリーというものに還元してしまっている小説に対しての当てこすりのようなものが、まったくないような、それがとても、爽やかだな、という感じがしました。 <柴田> 自分のやりかたを肯定するために何か別のやりかたを否定しているという感じがしない、ということですか? <岡田> はい。たとえば、自分のやっていることなり考えてることなりが、マイナーなものであると思ったら、メジャーなものに対しての攻撃性を持ったりするのは自然なことだと思うし、そういうものも大事だとは思うんですが、『ナイン・ストーリーズ』にはそういうものが全然感じられなくて。

さらに2人は『ナイン・ストーリーズ』の魅力にふれて、「これは要するにどういう話かという事が要約しにくい」(岡田)「ストーリーに還元したらこぼれ落ちてしまうものがいっぱいあるんだけど、かといって何の必然性もなく出来事が並んでいるのでもなく、こういうふうに展開するしかない、と納得させられてしまう力がある」(柴田)「だからといって、小説の細部を何もかも覚えておくことなんかできないから、どんな小説かっていうことをすぐに忘れてしまう。でもすぐにまた読み返したくなるし、もったいなくて1日に2編を読む気が起きなかったりする」(岡田)と言っています。
これは私が片岡作品に感じている魅力と重なるところがあります。インタビューで、質問者の勝手な思い込がばっさりと切り捨てられてしまったなと感じる一瞬がありますが、そんな時でさえ感じる片岡さんの静かさ、やさしさがどこから来ているのか、その謎を解くヒントにもなるように思えます。適当に知った風なことは言わない、言葉を発する時のこの片岡さんの姿勢によって、答えは質問者の想定を超えて自由に深いところまで及んでいくのだとわかってきたところです。
今回も片岡さんのこの発言からインタビューが始まりました。

まず最初に書いておいてほしいのですが、言葉づかいをちゃんとしなければいけないと思い始めたのです。これはホームページに掲載されるのですよね、個人的な話ではなくて。乱暴な、ぞんざいな口調というのはよくないと。

――ホームページの原稿を直したいと思われましたか?

むしろ直すのだったらもっと高校の時に身についた変なしゃべり方にするとか。べらんめいではないのですけれど、不良というか、学校の成績が悪い子どもたちのしゃべり方みたいな。

――しゃべるのを聞くと、あ、不良なんだとわかる。

不良っぽいというか、不良じみているというか、日活アクション映画のチンピラみたいなしゃべり方。「太陽の季節」以降の一連の非行少年ものがあるでしょう。湘南のしゃべり方。結局、キィになるのは人称なのです。「オレ」とか「オマエ」とか「アイツ」とか。

――片岡さんは「僕」ですよね。

いや。本当は「オレ」なんじゃないかな、身に付いているのは。しょうがないから、オレの代役として「僕」です。子どもの頃は「僕」だったのですが、高校生になって「オレ」になってしまった。

――「オレ」を選んだのですね。

そう。「僕は知りません」という言い方が普通だとすると、「俺ぁしらねえよ」となる。

――これからは、その口調でお話になるということですか。

いや。丁寧に。うその方で。

――インタビューの録音テープを聞くと、片岡さんの話し言葉は非常に書き言葉に近いと感じますが。

難しい事というか、めんどうくさい事をしゃべる時は、そうした方が楽です。話し言葉はもどかしいでしょ。
今日は、60年代の頃のことについて、少しメモをしてきました。60年代の僕は、単なる労働力だったという話をした方がおもしろいなと思ったのです。要するに、労働力なのです。

――ええ。

戦後の教育システムというのは、日本をうめつくす会社に労働力を供給するシステムでしょ。もののみごとにその典型です。大学を出たばかりだから、最若年とは言わないまでも、一応若年労働者です。60年代は僕にとっては、若年労働者としての10年間。労働者というのは勤勉でなければいけないから片っぱしから依頼を引き受ける。ものすごく忙しくて、勤勉な限りにおいては優秀な労働者...。今だって同じですけれど。

――今は高等遊民のように見えますが。

とんでもない。冗談じゃないですよ。

――でも、楽しそうです。

労働者に徹すれば良いのですから。徹するとはどういうことかと言うと、その時自分にできることを片っぱしからやれば良いということです。やれることしか、できないわけですから。

――依頼されるということは、できると思われているのですものね。

そうです。労働力として見込んでくれたというか、拾ってくれたわけですから。仕事そのものは文章を書くことだから、何か特別なことかなと錯覚する人もいるかもしれないけれど。当人も錯覚するかもしれないけれど、全然そういうことではなくて、単なる労働力なのです。

――片岡さんには、お金にならない文芸同人誌時代とかないですものね。

それはどうしてかというと、形から入らないで済んだからです。文芸同人誌というと純文学という形から入らなければいけないでしょう。形があるということが、すごく不得手というか、嫌というか、逃げたくなるというか、反発するというか。そういうことはやらないのです。

――いまだにそうですよね。

どういうことが関係して形から入らずにすんだのかと考えてみると、大学まで行ったことが大きかったと思います。例えば中学卒業後すぐに世の中に出た場合、彼にとって一番かわいそうなのは、まわりの大人たちが枠を押し付けてくるということです。新卒で会社に入ったら枠だらけなのです。また、労働者として見込まれるためには人とのめぐりあいというか、接点がなければいけない。そういうめぐりあいのチャンスがあったというのも大学まで行ったということが大きかったと思います。枠にあてはまらないでいい自由が少しあり、依頼してくれる人との出会いがあれば、あとは勤勉に労働を提供すればいいわけです。そして僕にとっての勤勉さとは、同じことを二度と書かないという事でした。型にはまらなくていい、型をまもらなくていい労働力。

――勤勉さの考え方はおもしろいですね。それは、同じものを書いたら恥だというような思いですか。

いや、仕事として同じことは書けないのです。この話、この前と同じじゃないかと言われてしまう。

――1回出したら書き直せないともおっしゃっていましたね

書いてしまったらおしまいでしょう。反省もふまえて次はちゃんと書こうと思うのです。そして、食べ物の話をすると、労働者だから餃子ライスなのです。通説によると、大連から引き揚げてきた人が、日本で仕事をしなければならないから習い覚えた餃子で店を開いたということです。餃子を売るなら人がたくさんいる所がいい、戦後の日本なら経済復興だから物を作っている工場の近くならそこにたくさん労働者が来る、その人たちに餃子を売る。餃子ライスは典型的な労働者の食事なのです。餃子ライス、最高です。

――それで今でも写真によく撮るのですね。

僕にとっての60年代は20代の勤勉な労働者、餃子ライスの日々。青春小説です。

――そういう正しい青春は今はありません。

60年代は成立したけれど、60年代のおしまい頃はもうだめなのです。68年くらいかな、何かが決定的になったのです。オリンピック、戦後から始まったことが、68年くらいに決定的になったのでしょう。

――エッセイで、片岡さんが25歳の時に、それまで持っていた写真を全部捨ててしまったということと、生まれた目白の家を見に行かれたということを書かれていて、1965年に何かあったのですか。

いや、何もないです。どうなっているのかと思うじゃないですか。それだけです。暇だったのです。見に行ったらそのままありました。まだその頃は戦前と陸続きでした。今はもうないでしょうね。土地の権利関係が残っていれば路地とか私道とか残っているでしょうけれど。

「マンハント」の片岡さんが書かれていたコラム、ファンがたくさんいたと思います。この文体は発明したのですか。

いや。話し言葉の変形でしょう。さっき話したような不良少年の話し言葉の変形です。

――落語の影響を指摘している人がいましたが。

むしろ漫才かな。戦後のラジオの漫才。あれはおもしろかったです。漫才という枠はちゃんとあって、舞台と客という枠もちゃんとあって、よっぽどひどいことを言わない限り、あとは自由なのです。それがおもしろかったのかな。人が言葉を使う時の自由さかげん、自由さによって笑いが生まれたりすることが。形がないというのは非常に良いですね。自分に徹することができる。自分に徹しようという意識は全くないけれど、結果として自分に徹しているわけだから。使える言葉しか使えないから、書けば書くほど自分に徹することになる。だから、書けば書くほど無形の得をしている。原稿料をもらいながら修行になっている。

――片岡さんの書かれたものが「マンハント」の個性をつくったとも言えると思うのですが。

そんなことはないです。

――それは言い過ぎですか。小鷹信光さんが、片岡さんは最初からうまかったと回想されていました。

うまいかどうかは別にして、これを書けと言われれば最初から書けたのです。

――流れるように読めますね。

話し言葉ですよ。

――「現代有用語辞典」という連載コラムが好きです。他の書き手と比べて片岡さんがどれくらい異質なのかということまでは読みこめていないのですが。

書き手というのは、みんな異質なのです。その方向とか度合いがそれぞれ違っていて、編集者がどれを選ぶかによるわけでしょ。

――編集者に恵まれたという気持ちはありますか。

あります。形をおしつけない編集者でした。純文学の編集者にはめぐり会っていないから。おしつける人だと大変だと思う。けんかですよ。まあ張り倒すでしょうね、間違いなく。

――片岡さんが!!。張り倒した人がいるのですか。

ありますよ。色々と。

――「あなたは原稿を渡すがわの人になりなさい」と言ったのは「マンハント」の編集長だった中田雅久さんなのですか。

そうです。それは決してほめ言葉ではなくて、君は編集者はやめた方がよいという意味でしょう。

――片岡さんは「マンハント」について、あまり発言なさらないですが。

忘れちゃったのです。何を書いたか忘れています。

――「マンハント」はアメリカ版がまずあるのですよね。

「マンハント」はその日本語版と称して娯楽的な総合雑誌を作ったのです。ほとんどタイトルだけ借りて。そういうスタイルの草分けですね。

――雑誌「フリースタイル」に鏡明さんが「マンハントとその時代」という記事を連載されていて、アメリカ版の「マンハント」はサブカルチャーだったという話ですが。サブカルチャーということに対して何か感じていらっしゃったのですか。
(*後日確認したところ鏡氏は「フリースタイル」(vol.42006年)で「ポピュラー・カルチャー」とおっしゃっていました。サブカルチャーと読み違えたのは質問者の責任です)

サブカルチャーという言葉そのものが無かったのです。まあ若年労働者にふさわしい世界、餃子ライスにふさわしい。この時代が終わってしまうというのがおもしろいよね。時代が終わるということがあるのですね。

――時代の終わりをどういう風に感じたのですか。

要するに終わるのです。仕事はいっぱいあるのだけれど、ふと気づくと終わっているのです。そして次に始まった70年代はどういう時代だったかということにはあまり興味がないな。終わっていく時代に、自分なりに結着をつけなければならない。

――どうやって。

本を書いたのです。『僕はプレスリーが大好き』。あの本を出してくれた編集者がいたというのもすごいことですよね。

――今読んでもおもしろいです。

むしろ今だから理解できるのかもしれない。その時わかる人がいたかどうか。

――当時日本にないものだったからでしょうか。

すごく遠いものを書いているよね。不思議なことに。

――『僕はプレスリーが大好き』のあとがきが好きです。色々な参考文献があげられていて、アメリカのアンダーグラウンドマガジンとか、違う形の文化とかメディアを知っていて、そのうえで「マンハント」に書いていたということが大きかったのではないかと思うのですが。意識していらっしゃったのですか。

わからないです。知っていることは知っているわけだし、知っていることを知っていることとしてどれくらい自覚して、意識しているかというのはまた別の問題なのです。ほとんど意識していなくても文章の端々に出てくることについては、自覚していないからわからないです。ただ、新しい考え方というか、それまでになかったもの、別の視点、新鮮な視点というのが好きなんじゃないかな。

――英語のものを読んでいたというのは大きかったですか。

それはありますね。

――若年労働者は年をとっていきます。

そうですよ。僕自身は68年ごろになると完全に飽きているのです。依頼をこなすだけです。提案もしないし、ルーティンです。

――「マンハント」の時代について、片岡さんは一過性の、ある時代のできごととおっしゃるかなと思ったのですけれど、実際に「マンハント」に書かれたものを読んでみると一過性のものではないなと感じたのです。「決して一過性のものではないよ、テディ片岡は」と思いました。

言葉でできているわけだから。言葉を使うということは普遍的なことでしょう。言葉の使い方の問題なのです、おそらく。何をどう考えようと最終的には言葉で固定するわけだから。僕の言葉の使い方に一貫性があるということでしょうね。

――『ナイン・ストーリーズ』のテディは早熟な天才なのです。ぴったりです。

ではそういう話にしておきましょう。

(2010年2月19日)