ここではない、どこかで吹いている風

今月はインタビューはお休みです。かわりに片岡さんの作品の魅力について考えるその①を。

1980年代、出版されるたびに買って読んだ赤い表紙の角川文庫。ポップ・ミュージックのシングル盤みたいに、次々書店に並んだ片岡さんの小説の好きな場面をノートに抜き書きするということを最近まとめてしました。書き写したのは例えばこんな文章です。

奥の部屋に入り、窓を開いた。視界いっぱいに、雨の降る太平洋が見えた。 窓枠に腰を降ろし、柱に背をもたせかけた。窓の外は、非常階段につながる幅のせまい回廊のようなバルコニーだ。バルコニーには、地元の花火大会のうちわが落ちていた。うちわは、雨に濡れてコンクリートにはりついていた。  すっかり味のしなくなった梅干しの種を舌のさきで転がしながら、彼女は海をながめた。海から、おだやかに風が吹いていた。雨の香りをいっぱいにはらんだその風は、シャワーのあとの全身に心地よかった。
(『幸せは白いTシャツ』1987年)  

あるいは、こんな一場面。

ガラスを降ろした窓から吹き込む風に、ワイキキの町の香りがあった。いていく雨の香りのなかに、排気ガスとみやげ物屋の香りが、まざっている。  カラカウア・アヴェニューに面した、ワイキキ・ビジネス・プラザの前で、ジェニファーは車を降りた。  車をおりようとするジェニファーに、 「ようけ働かん食えんがの」と、何の意味もなく、ぼくは言った。 「なんと言ったの?」 「知らない」 「ヒンズー語みたいね。ヒンズーにこっている人が、友だちにいるのよ」 「日本語だ」 「ふうん」 「おじいさんが、口ぐせのように言っていた。なんという意味だか、忘れてしまった」 「もういちど言ってみて」 「そう言われると、出てこない」ぼくは、笑った。 「あるとき、ふと、思い出すだけだ」 ジェニファーは、手を振って車を離れ、歩道を歩いていった。彼女の頭上、高いところで、椰子の葉が風に吹かれ、硬い音で鳴った。
(『白い波の荒野へ』1974年)   

いくつかの文章を並べてみると、そこに共通して見えてくることがあります。心魅かれた場面には、風が吹いていることが多い、ということです。読みながら、かつて、ある日、吹かれた風の思い出が、体感を伴ってよみがえります。主人公と同じような体験をしたから思い出すという事ではなくて、吹かれた場所はまるで違うけれど、風に吹かれた時の体の気持ちよさを蘇らせるものが、きっかけとなるものが、物語のどこかに隠されている気がします。

しかも、風景が詳細に描写されているから風を思い出すというわけではなくて、場面を説明する言葉の数は少なく、思い浮かぶ風景は抽象的な印象でさえあるという点が不思議です。これは、片岡さんの描く女性が「美人」としか書かれていないのに、読む人が持つイメージをその言葉に乗せて何となく了解していることと似ている気がします。

描かれている場面が抽象的であるのに、喚起されるイメージが体感を伴ってリアルであるということ、これが片岡さんの作品の魅力ではないかと感じています。抽象的であるからこそ、現実から足を離した心のなかの世界の事となり、体感をともなって物語を経験することができるのから、想像のなかで遊ぶという事が充分できることになるのだと思います。

そして、こういうことがなぜ成立するのかは追及したい謎でもあります。イメージを喚起させるにふさわしい、的確な言葉が配置されているからでしょうか。片岡さんが風に吹かれた経験を、何によって憶えているのかということに関係しているのかもしれません。

私に風を感じさせたのは、「椰子」という言葉によって空まで伸びた視線? 「硬い音」という言葉が想起させたもの? いずれにしても、一度も行ったことがない"心のなかのハワイ"で、気持ちよい風が吹いたということは事実なのです。