長いことマグレブ、つまりモロッコを含む北アフリカに行きたいと思っていた。グラナダで写真がたくさん入った案内書を買ったのは1997年、10回目のスペイン旅行の途中だった。アンダルシアを訪れるたびに、この地に残されたイスラム文化の本家本元を見たいという思いは強くなる一方だった。
私は3人の年子が全員高校生になった年にスペイン語を習い始め、1984年に『中世聖母奇跡物語の言語学的分析』と題した論文を提出して上智の大学院博士前期課程を終えたが、その後も作曲家だった夫のテクスト係りをつとめる傍ら『聖母マリアのカンティガ集』を読み続けてきた。賢王とたたえられたスペインのアルフォンソ10世(1221-1284)が編纂したこの書物には400篇を越す歌謡がおさめられており、そのうち40篇は聖母をたたえる賛歌、残りは聖母が行った奇跡を述べる物語歌である。
『カンティガ集』がとりあげている霊験あらたかな聖母の聖所は、スペインはもとより、フランス、イタリアから聖地エルサレムに至る中世キリスト教世界全般にわたっている。それらの聖母、正確にいえば聖母子像の中で私がもっとも心をひかれるのは、アンダルシアのカディス対岸の小さな港町、プエルト・デ・サンタマリアにある「港の聖母」である。
アンダルシア西部のレコンキスタ(国土回復)をなしとげた後、北アフリカに十字軍遠征を企てたアルフォンソ10世は、根拠地としてこの小さい港町を選んだ。そして騎士修道会を設立するために、アフリカのイスラム軍団が築いた川沿いの城(現在はサン・マルコス城と呼ばれている)に、ゴシック初期の作と思われる美しい聖母子像を安置して「スペインの聖母」と名づけた。しかし、この王の政治的・軍事的な意図はほとんど実現することがない。このときも既存の騎士修道会が、新しい騎士修道会のために王が集めた財を食い荒らし、計画は竜頭蛇尾に終わった。
『カンティガ集』には「港の聖母」の奇跡物語が28話ある。イスラム支配下でアルカナーテと呼ばれていた町が「聖母マリアの港」という名に変わったいきさつ(№328)、城の改修に必要な木材が不足すると聖母が上流の橋を流してくれたこと(№356)、30人の男たちが聖堂のために深い穴を掘っていると塔が崩れ落ちたが、聖母が守ったので誰も怪我ひとつしなかったこと(№364)などなど。
「港の聖母」の写真を撮るために、私はこの町に4回行った。現在も聖所として機能しているモンセラートやビジャルカサール・デ・シルガなどと異なり、「港の聖母」は礼拝の対象になっていない。毎週土曜日の昼間2時間だけ城の門が開き、広間の奥に安置された「港の聖母」に会うことができる。広間の入口は鉄格子で閉ざされているので像に近づくことはできない。最初に行ったとき持っていた小型カメラの80ミリ望遠では、豆粒ほどの写真しか撮れなかった。
この町とカディスを結ぶフェリーに乗って、カンティガ№368の病める女が癒されたカディスの旧カテドラルをさがしに行ったこともある。港町では、さまざまな顔色や顔かたちの人に出会う。波止場には車座になってワインを飲みながら歌っているジプシーらしいグループがいるし、バスの切符を買うお金をくれと女の人にせがまれたこともあった。
柴田の《宇宙について》(1979)のテクストを準備したとき「世界の多様性」を基礎概念としたが、それがどのようなものか実際にわかっていたとはいえない。この世にさまざまな人種があり、多様な生活があることを実感できたのはこのアンダルシアの港町でだった。そして今度マグレブの地を歩いて、私たちが知らないさまざまな生き方があること、また、私たちが「文明化」するためにいかに多くのものを捨ててきたかを今更のように気づかされた。
たとえば街道を歩いているひとびと。私たちはほかの町に移動するためにバスに乗っている。大勢の男たちがジャラバの裾をひるがえして街道を歩いている。子供を背負い荷物を持った女たちもいる。時おり車が通るし、道ばたでバスを待っているらしい群を見かけることもあるが、歩いている人の多さは圧倒的だ。
半世紀まえには日本でも、どこへ行くのも歩いたものだ。長野県岡谷市に疎開していた65年前には「国民学校」の授業は午前中だけで、午後は草刈り、開墾、木曳きなどの作業だった。私たち5年生は塩尻峠を越えて午前中いっぱい歩き、山奥の炭焼き小屋に炭を運びに行ったことがある。帰りは3人交替で4貫俵(15キロ)をくくりつけた背負子の重さに汗を流しながら山道を歩き、日が暮れかかるころ学校にたどりついた。車社会のいま、人は健康のために、あるいはレクリエーションとして歩く。街道を歩くモロッコの人たちは、かつては歩くことが生活の一部だったことを私に思いおこさせた。
しかし文明化も悪いことばかりではない。どの町にもメディナの迷路の中にCDを売る店があった。古都マラケシュの広大なフナ広場の一隅にあったCD屋では、ここの音楽のCDを買いたいというと、即座に「ベルベル人の音楽」と「モロッコのウード」を筆頭に5枚のCDが目の前に並べられた。アル・アンダルスの音楽はあるかと聞くと、「ありますとも」といってアドゥナン・セフィアンという歌手のCDを出してきた。伴奏はサレのオーケストラである。
サレは河をへだててモロッコの首都ラバトと向かい合う港町で、アルフォンソ10世は1260年に船隊を組織してここを攻めようとした。前に読んだ伝記では、船隊は上陸せずに引き返したことになっていたが、グラナダで買った案内書には、略奪された町を何日かのちに、アブ・ユスフ・ヤクブ・ベン・アブドゥ・エルアークが取り戻したと書いてある。
カバーの写真には嬉しいことに、フェズで現地ガイドのフワッドさんが店の言い値の半値に値切ってくれて買った擦弦楽器のレバーブがある。撥弦楽器のウード、打楽器のダルブーカも一緒に写っている。CD「モロッコのアル・アンダルス音楽」には7曲はいっているが、曲名がアラビア語だけなので、フワッドさんが暇なときに訳してもらおうと思ったが機会がなく、最後の二日になった。
マラケシュから帰りの飛行機に乗るカサブランカまではバスでなく3時間の列車の旅で、定員6人のコンパートメントの相客は中学生の男の子とそのお母さんだった。モロッコがフランスの植民地だったのは半世紀たらずだったと聞いていたが、学校で習う第一外国語はフランス語、英語は第二外国語だそうで、少年は話が通じるには十分な英語を話したし、お母さんはフランス語の新聞を読んでいた。思いついて、「アル・アンダルスの音楽」の曲名を英語に訳してもらえないかと頼んでみると、少年は「いいよ」といった。
英語の単語がわからないとお母さんに聞いて題名を英語で書いてくれたが、私がアラビア文字をなんとか読めるのに気づくと、書くのはどうなのと聞く。むかしほんの初歩を習っただけだけれど自分の名前くらいはなんとか、と答えると書いてみてという。メモ用紙に名前を書いてみせるとカーフ(Kにあたる)だけがちょっと違うね、といって直してくれた。それから自分の名前をAliと書いたので、その下に片仮名の「アリ」を並べて見せたら、何回も練習していた。
彼は学校の1週間の休みをお母さんと南の保養地アガディールで過ごし、マラケシュを見てカサブランカの少し北の町に帰るところだった。ミシュランの地図をひろげると、モハメディアという海沿いの町をさして、「ここだ、ぼくの町はここだ」と大喜びだった。はるかな地平線に陽が沈んだとき、sunsetとsunriseにあたるアラビア語を教えてもらったし、たいへん有益な3時間だった。
モロッコの最後の日に、カサブランカのハッサン2世モスクを見た。メッカ、メディナに次いで世界第3位の大きさを持つこのモスクは、海岸に打ち込んだ無数のコンクリート柱の上に建てられている。潮が満ちると建物の基部を波が洗う。内部はアラベスクの饗宴だ。25000人がモスクの中で、80000人が外で礼拝できるそうだ。この壮麗な大建造物が、全額寄付で、しかも6年しかかからずに1993年に完成したと聞いたときには、驚きのあまり言葉が出なかった。私は、何の本か忘れたが、ヨーロッパのロマネスクからゴシックへの移行のことを述べた1節を思い出した。「全ヨーロッパはあたかも古い衣を脱ぎ捨て、新しい白い衣をまとったようだった。」様式の変化は、時代の力によってひきおこされる。もしかするとイスラム圏は、中世のキリスト教世界に押し寄せたのと似通った潮流にさらされているのではないだろうか。
家に帰ってまず、「アル・アンダルスの音楽」を聴いたが、やや期待はずれだった。以前から持っていた二三のCDと大差ない。アル・アンダルスとはイスラム支配時代のアンダルシアの呼び名である。1492年にカトリック両王がグラナダの市門の鍵を受け取ってイベリア半島をキリスト教側に取りもどしたとき、アンダルシア地方には8世紀にわたるイスラムの歴史があった。イベリア半島を追われた人々はアンダルシアで慣れ親しんだ音楽を北アフリカに伝えた。いまアル・アンダルスの音楽と呼ばれているのは一種の伝統芸能のように感じられる。
一方、「ベルベル人の音楽」と「モロッコのウード」はすばらしい。前者は生気に溢れた歌だし、後者は名人芸の極致だ。私は毎日、駱駝の腸のガット絃を2本張ったレバーブをひざに乗せ、サハラ砂漠の北端からペットボトルに入れて持ってきた赤褐色の砂や、化石らしいものがはまっている石ころを眺めながらこの2枚を聞いている。