実に与太話で恐縮なのですが、花粉症ならぬホラー症というものがあると思うのですよ。花粉症というと、よくコップのなかの水があふれることにも喩えられますが、生まれてから吸った花粉がどんどん自分の身体のなかのコップにたまっていって、それがついにあふれてしまうと、くしゅんずるずると花粉症になってしまう、なんていう話がありますよね。それと同じように、ホラー分というものも摂取しすぎるとあふれてしまうのでは、と思ったりなんかしたり。
ただ、あふれたときに起こるのがくしゃみや鼻水なんかではなく、「笑い」であるところがホラー症の恐ろしいところなのです。何を言ってるんだと思われることでしょうが、私は小さな頃からホラーやら怖い話やらをたいへん好んでおりまして、幼稚園や小学校や中学校といった少年期に、それこそ浴びるように、いやお菓子みたいな感覚でホラーを食べて、日々怖がって(楽しんで)おりました。
しかし!
ある日のこと、というより、ある日を境に(残念ながら特定の日を思い出すことはできません)、私は人を怖がらせようとするコンテンツや遊具なんかに接すると、爆笑してしまうようになってしまったのです! 何と言うことでしょう! 一種のホラーアレルギーというわけですね!
そうなってしまうと、たとえ怖い映画を見ても、それこそ画面上が真っ赤だったり手足が大変なことになったりしていても、あるいは足がぶらんぶらんとしてぐるぐると何回転もするジェットコースターに乗ったりなんかしても、もうお腹をかかえて笑うしかなくて。あっはっは、あっひゃっひゃ。空と地面が逆になってる、あははははっ、みたいな。
笑うことでかなりのストレスの解消にはなっているんでしょうが、私が欲しいのはそんなんではなくて、戦慄するほどの恐ろしさだったりするんですけどね。もうダメなのです、何をやっても怖さよりも笑いの方が先に出てきてしまって。お化け屋敷なんかでもそうです。女の子と一緒に入ったりして、隣で「きゃーこわい」とか言って女の子がありきたりに震えたりなんかしても、私はそのそばで吹き出しそうになるのを必死でこらえているわけです。何と言いますか、怖がっている人そのものもおかしいですし、何とかして怖がらせようとして待ちかまえているお化けスタッフも面白いですし、そのあいだに挟まれて歩いている自分自身ももう馬鹿馬鹿しくて(お仕事されている方への他意などはございませんので、念のため)。
かと言って驚かないわけではないんですけどね。いきなり出てこられたらびっくりしますし、でも驚くことと怖がることは違うじゃないですか。それに、お化け屋敷の場合でも私より連れの方がひどいなんてことがないわけでもなく、かなり剛胆というか物怖じのしない人もいるわけで、入るなりずんずん進んでいって、お化けさんが出てきてもぴくりともせず、そのままお化けさんをにらみつけて挙げ句の果てにはお触りしちゃう女の子もいたりしたんですけどね、そのときは私も追いかけつつお化けさんにひとりひとり「うちの彼女がすいません」などと謝ったりして、怖いとか面白いとかいうより、変な汗が出まくったわけなんですが。
閑話休題。で、そもそもなんでそんなふうになってしまったのかと考えてみると、どうやらホラーというエンタテイメントを、客観的に受け止めてしまうようになっちゃったからではないか、と思ったりもしてみます。あまりに見過ぎた(読み過ぎた、参加し過ぎた)ために、それが作り物だっていう感覚がしみついちゃったのではないかと。少なくとも映画でもテレビでも、モノとしての画面がそこにあるわけですし、本でも読む自分とのあいだにやっぱり隔たりがあるわけで、お化け屋敷でも遊園地という特別な場所があって、他にも、たとえば肝試しにしても基本的には効果みたいなもので、グループ内の雰囲気や場所の意味に頼り過ぎているところがあって、心霊写真にしてもアナログカメラというメディアに依存しすぎなところがないわけでもなく。
ともかくこっちの気持ちなりなんなりに左右されることが大きすぎて、こっちが冷静になってしまうともう楽しめなくなっちゃうわけで。じゃあ落ち着かなければいいじゃないか、という話にもなりますが、摂取しすぎるとこっちの都合に関係なく自動的にそうなってしまうんでしょうね、きっと。いろんなものが透けて見えてしまって。だから高校生になる頃には、例の「リング」とかが流行っていたわけですが(呪いのビデオ!)、あれのどこか怖いのかまったくわからなくなってました。
でもそんな逆行に負けてなるものか、と私が最終手段として取り出したのが、いわゆる「悪夢」なのです。どんなにホラーが作り物であろうと、夢というのは自分の意識や感覚と直結しているわけですから、めちゃくちゃ生々しいわけで。それがどんな荒唐無稽なものでも、たとえば新撰組が池田屋に巣くう長州ゾンビどもを斬りまくる、という頭の悪い設定でも、自分の目の前にゾンビがいてこっちに襲いかかってくる、という身体感覚が夢だとびっくりするほど鮮明で、ぞくぞくっとしてしまいます。ああ、なんて素晴らしい! 私のかわいいかわいい戦慄ちゃん!
これが自分の自由にできるといいんですが、本の内容を夢に持ち込むとかそういう高度な技は使えないので(できる人はできるらしいですね)、ほとんど偶然と運に頼るしかありません。たとえ怖い本を読みながら寝ても、まずは入眠時催眠で勝手に本の続きを妄想しだして、そのあとの頁を捏造するだけですから、夢のなかでは私がただ頁をめくっているだけで、けしてその中身が再生されるわけではなく。
ともかく、こうして私はホラーを悪夢によって自給自足することになり、ほとんどホラーコンテンツを外部から摂取することがなくなってしまったのですが、夢さえも「これは夢だ」と客観的に見るようになってしまったらどうしよう、と危惧しないでもありません。そうしたら私はどこか現実の危険な場所へ行ってしまうのでしょうか。でもリアルに自分も含め誰かの命が脅かされている、そんな場所に行ったとしたら、私はきっと倫理や正義などの方が先に立って、かえって恐怖など感じないでしょうから、いくらなんでもそんな悪趣味なことはしないと思います。
やはり、フィクションとホラーのバランスなのでしょうね、どこまでも作り物ではあってほしいけれど、できるだけそれがバレないようなものであってほしい、という娯楽のあり方というんでしょうか。それすらもどうしようもなくなったとき、どちらかというと私は、宇宙的な不可解とか、そういう方面へ行ってしまうような気がしています。宇宙の誕生とか、宇宙の果てとか考えるだけで恐ろしい。人知の及ばないところへ思いを馳せる、理解できない謎に対する恐怖、というような。
そういう意味では、悪夢から目覚めたとき、落ち着いて枕をじっくりと見つめてみると、まつげが大量についていたりなんかして謎です。恐怖ですらあります。あれって、なんであんなにたくさんあるんでしょうね。もしかすると私だけかもしれませんが。私のまつげって長いですし。それにしてもあんなにたくさん取れたら、私のまつげはなくなってしまうんではないかと思うのですが、鏡を見るとそうでもないあたりが怖すぎます。もしかすると、眠っているあいだに謎の宇宙生物が私の枕にまつげをこっそりとばらまいているのかもしれません。おのれ、まつげ星人め!
ほら、怖くないですか?(何かというより、私自身が。)