メキシコ便り(32)ブラジル

いよいよ私の中南米ひとり旅も今回のブラジルで最後になりました。

日本からは地球の真裏にあたり、最も遠い国ブラジル。2014年のサッカーワールドカップや2016年のオリンピックの開催が決まり、経済発展も著しいといわれているブラジルですが、実際はどうなのか、興味津々でかけることにしました。

ブラジルまでは日本からだと24時間から30時間くらいはかかりますが、メキシコからだと9時間ほどです。夜遅い飛行機に乗り、サンパウロに着いたのは昼の1時半。友人の山下さんが迎えに来てくれ、ここでは彼の家に泊めてもらいます。

ブラジルには1908年、笠戸丸で791人が初めて移民したのを皮切りに、25万人の日本人がブラジルに渡りました。特にサンパウロのリベルダージには大きな日本人街があり、コミュニティーを形成しています。そこでリベルダージにある移民博物館に行ってみました。ここで三重県の教育委員会の人を案内している男性がいたので一緒に話しを聞かせてもらいました。

彼は10歳のときに両親に連れられブラジルに来たそうで、その経験談はとてもショッキングなものでした。ジャングルを切りひらき畑を作ったそうですが、とにかく食べ物がなく、なんでも食べられるものはすべて食べたそうで、スズヘビという毒蛇をたくさん捕まえてそれを干してだしをとったという話、豚のラードの塊の中に肉をいれ冷蔵庫がわりにして保存したという話、食料にする魚を川で取り干していると、そこにハエが卵を産みつけそれがかえり、そのさなぎを湯で洗ったという話、シュッパンサという虫が家の柱に卵を産みつけ、大量発生したシュッパンサにかまれ、シャーカ病という心臓が肥大する病気にかかり死んだ人の話、密林に住むアナコンダに子供がのみ込まれた話など、あまりに具体的で壮絶な話の数々は想像を絶するものばかりで、その苦労は私などにはかり知ることはできませんでした。また、密林を切りひらくのではなく大きなコーヒー農園で労働者として働いた人は、当初は5年契約でしたが、生活物資はみんなコーヒー農園の売店で買わなければならず、これがまた高く、貯蓄するどころか借金の方が増え、5年が6年、7年と伸び逃げ出した人も多くいたそうです。このように苦労に苦労を重ねながらがんばってきた日系人は、いまではブラジル全土に150万人となり中産階級を形成しています。

その日は日曜だったのでとなりのホールでは太鼓フェスティバルが開かれていました。ブラジル人の若者と日系人の若者が一緒に笛や太鼓でソーラン節を演奏する姿は100年以上かけて日系人がブラジルでふんばり続け、今ではすっかりブラジル社会に溶け込んでいるという証しなのでしょうね。しかし、今や3世、4世の時代になり、日本人の顔をしていても日本語がほとんど話せない人たちも増えてきています。日本の伝統文化をしっかり守りながらも日本が少しづつ遠くなってきているという現実もあるようです。

次の日はサンパウロから飛行機で1時間半のカンポ・グランジに行き、ここからバスで5時間のボニートに行きました。ここには透明度の高い川がありシュノーケリングをしながら魚と一緒に川を流れていくことができます。その中のリオ・デ・プラタ(プラタ川)に行きました。聞いていたとおり本当にきれいな川で水面の上からでも魚がはっきり見えます。この川だけに生息するというピラパタンガや金色で尾に黒いラインのあるドラードなどたくさんの魚が悠々と泳いでいます。水深1メートルの浅いところもありますが、決して立ったり歩いたりしてはいけません。ひたすら手だけを使いゆっくり浮きながら泳ぐのです。こんな風に泳いでいると、まるで私も魚になったような気がします。約3時間でしたが初の魚体験、おもしろかったです。

ここではこのほか「青の洞窟」と呼ばれる真っ青な水をたたえた地底湖のある洞窟に行ったり、ミモーゾ川ぞいにある滝公園の6つの滝つぼで泳いだり、魚がいっぱいの川がそのままプールになっている公園でのんびりしたりと、ゆっくりとボニートを満喫しました。

そしてまたサンパウロにもどり、今度はバスで6時間のリオ・デ・ジャネイロに行きました。ここは1960年にブラジリアに首都が遷都されるまで約200年にわたり首都だったところです。コパカバーナやイパネマ海岸をはじめとして長い海岸線を持ち豊かな土地から産出される農作物や金、ダイヤモンドなどの積み出し港として栄えました。

ミーハー観光客としてはここにくればまずはコルコバードの丘に登り、大きなキリスト像を見なければなりません。朝一番の登山電車に乗り行きましたが、深い霧で何も見えません。うーん残念。でもここが一人旅のいいところ、誰も先をせかす人はいません。霧が晴れるまで待つことにしました。何にも見えない丘の上でうろうろしていると1時間もすると霧が晴れてきました。すると見えてきました、リオのシンボルとなっている高さ30メートル、幅28メートルのキリスト像が、今までは空撮している写真しか見ていなかったのですが、そばで見るとやはり大きい。見られればオーケー、これで満足して丘を降りました。

そしてそのあとバスと地下鉄を乗り継いで、世界最大といわれているマラカナンスタジアムに行きました。11万5000人収容できるというその大きさにはびっくり。通路には壁一面にロナウジーニョやロナウド、カカら人気者たちの大きな写真がいっぱいです。またスタジアムだけではなくロッカールーム、トレーニング室、ジャグジールームなども見学できました。しかしその設備は案外簡素なのでちょっと拍子抜けしました。それにしてもこのスタジアムで満員のお客が入った試合の様子を想像するだけで、なんだかわくわくしてくるようなきれいで立派なスタジアムでした。

そして、ここからの帰り道、またもやひったくりに遭遇してしまったのです。地下鉄に続く大きな陸橋を歩いていました。そばには掃除のおじさん、前には女性と黒人の男性が2人歩いていました。するとその黒人の一人が急に振り向き、私に近寄りかばんをひったくろうとしたのです。中にはパスポートをはじめ大事なものがすべて入っています。ぜったいに盗られては困ります。私は「だめー、ぎゃあぁぁぁーー」と大声で叫びました。するとその男はなにも盗らずに私から離れていきました。助かったー。ブラジルは危ないと聞いていましたが本当に危ないです。日中の人がいるところでも襲ってくるのですから。きっと私の「気ぃつけてるでオーラ」が弱くなっていたのだと大いに反省した次第です。

次の日はカーニバルが開かれるというメイン会場に行ってみました。毎年2月に開催されるリオのカーニバルですが、もう会場づくりが始まり、そばの小さなみやげ物を売っているスペースでは衣装が展示してありました。これ以上派手にはできないというほど超ド派手な衣装で、1年のかせぎをこれにつぎ込むというのですから、相当高いのでしょうね。このあと近代美術館に行きカルロス・ベルガラの作品展を見ました。カーニバルがスコールで中断し、道には大きな水溜りができ、その水溜りに写ったなんともいえない表情の踊り手を写した写真がとても面白かったです。

そのあとはコパカバーナで泳ごうと往復の地下鉄代だけ持ってでかけました。ここは世界有数の大リゾート地です。大きなホテルが林立し、たくさんの人が海岸にいましたが、残念ながら波が高すぎて遊泳禁止です。せめて足だけでもつけようと海岸を歩いていると大きな波がきてすっかり濡れてしまいました。トホホー、なんとも中途半端な感じで引き上げなければなりませんでした。

次の日早くサルバドールに飛行機で移動しました。サルバドールは1763年リオ・デ・ジャネイロに首都が遷都されるまで約200年あまりブラジルの首都だったところで、人口300万人の80パーセントを黒人が占めます。そのため独自のアフロ・ブラジリアン文化が花開きました。

ダンスと格闘技をミックスしたようなカポエイラはもともと武器を持たない奴隷が素手による攻撃、自己防衛として発達したもので、ビリンバウという弓のような楽器に合わせて太極拳のようなスローな動きで踊ります。道を歩いているとこのカポエイラを広場でやっていました。踊りとビリンバウをじっと熱心に見ていると、そこでビリンバウを弾いていた男性が近寄ってきて弾き方を教えてくれました。大きな椰子の実のからを共鳴箱に1弦だけを弓のように張ってあります。竹の弓と弦の間に左手をいれ、そこにこぶし大の石を持ち、弦につけたり離したりしながら音程をつけるのです。彼が弾くといい音がしますが、私がやると簡単な楽器なのに、難しくてうまくいきませんでした。

彼にお礼を言って通りを歩いていると、今度は小さなみやげ物屋からギターの音が聞こえてきました。その音にひかれて中に入るといろいろな楽器を売っていました。ガンサという20センチくらいの木筒の中に豆が入った楽器は前後にシャカタカ、シャカタカと振り、マピートという笛はピッピポッポ、ピーピポと吹くと教えてくれます。私は面白くてやってみました。それぞれで鳴らすとうまくリズムを刻めるのですが、一緒にやれといわれると、とたんにガタガタになってしまいました。おじさんは「練習、練習、日本に帰ってからがんばれ」と言いました。それにしてもここの人たちは音楽が好きなのでしょうね、通りでサンバのリズムでタンバリンを叩いて踊っている人がいますし、夜になると大音量の音楽をかけ、テーブルを道に出しみんなで体を揺らしながらビールを飲んでいます。なんだかとても楽しそうです。本当はもっとここでゆっくりしたかったのですが、先を急がなくてはならず、次のマナウスに行きました。

マナウスは世界一の流域面積を持つアマゾン河が流れるジャングルの真ん中にある大都市です。飛行機が1時間遅れおまけに荷物が30分かかってもでてこず、予定から1時間半以上遅れて出口に出ました。すると迎えにきているはずの旅行社の人がいません。彼女の携帯に何度も電話してもつながりません。ジャングルツアーや今夜のホテルの手配も頼んでいたので困り果てました。でもどうしようもないので、自分で適当に手配しようかと思いながら再度電話すると今度はつながりました。

なんと空港には彼女の夫が迎えに来ていましたが2時間待っても私が出てこないので帰ったというのです。えー考えられない。飛行機が到着する予定の時間より40分も早く来て2時間も待ったとはなんという言い草。普通は飛行機の到着の遅れなどを調べるでしょうと、その責任感のなさにびっくりしてしまいました。それでも20分後には彼が空港に着くというので仕方なく待ちホテルまで行きましたが、どっと疲れました。

その日は19世紀後半、アマゾンがゴム景気に沸き、ありあまる財を手にしたヨーロッパからの移住者が建てたというイタリア・ルネッサンス様式のオペラハウス、アマゾナス劇場に行きました。見学料金は10レアル(日本円で約550円)です。何人か集まってガイドについてでないと入れません。でもそのガイドはポルトガル語か英語だというのです。スペイン語はないかと聞くとないといわれ、私はどちらで聞いてもわからないと、入るのを躊躇していると、入り口にいた女性が「今夜8時からここで無料のコンサートがあるので、それにきたらタダで見られるよ」とそっと教えてくれました。ラッキー、コンサートの内容まではわかりませんでしたが、そんなことはかまいません。とにかく8時に来ることにし、そのまま帰りました。

8時少し前に劇場に行き中に入りました。劇場内は2階から5階までバルコニー席になり大理石の階段、屋根いっぱいに描かれた芸術をテーマにした絵などとてもきれいで、豪華な調度品が置かれ、まさにヨーロッパそのものの雰囲気でした。オーケストラピットにはアマゾナスフィルハーモニーが入り、その日の演目はブラジルの作曲家、ビラ・ロボスの曲で踊るコンテンポラリーダンスでした。舞台中央に長方形の額縁のある舞台をもうひとつ作り、ここでは影絵のような動き、手前の舞台では踊り手がその影絵に呼応しながら体を動かすという、とてもおもしろいダンスでした。ここではこのような無料コンサートがしょっちゅうあるそうで、うらやましい限りです。タダで劇場とダンスを見られて倍、幸せな気分になり劇場のすぐそばにあるホテルに帰りました。

次の日、ジャングルロッジから迎えがきて車と船と徒歩で移動しました。ロッジはバンガローになっていて、クーラーがあり、熱いシャワーがいつでも出ます。虫が部屋に入ってこないように、窓は網戸になっています。あまりの快適さにまるでリゾートホテルに滞在しているようで、ジャングルにいるのだという実感が全くなくこれでいいのかな、とちょっと疑問を感じましたが、やはり私が疑問を感じたことは正しかったのです。これではよくなかったのです。というのは次の日の朝、こんなことがありました。

ガイドに連れられジャングルトレッキングをしていたとき道で小さな蛇がとぐろを巻いてたのでひょいとまたいだのです。同じツアーの米国人のおじさんはその蛇の写真を撮っていました。先を歩いていたガイドに蛇の話しをすると、彼はびっくりして引き返しその蛇を捕まえました。なんとそれは猛毒をもったコブラだったのです。首をガイドにつかまれたコブラは鋭い牙を見せて私を見ているようでした。もし私がまたいだ時かまれていたら、死んでいたかもしれません。ジャングルに対する無知とノーテンキさがあんな軽率な行動をとらせたのです。快適なロッジに泊まり、用意万端整えられたコースに乗って動いていると警戒心がマヒし、ジャングルを知らず知らずのうちに甘くみていたのだと思います。やはり「ジャングルはなめたらあかん」のです。

午後からは別のガイドのアルテミオに連れられピラニア釣りにでかけました。その途中一匹の蜂にさされてしまいました。ヒリヒリと痛くて腫れ上がってきます。するとアルテミオが近くの木の幹を2種類切り取り傷口にあてろといいました。それをあてていると不思議なことに痛みも腫れもすっかり消えてしまいました。すごい知識です。

ジャングルは猛毒を持った動物や虫などが多く生息していますが、一方で薬の宝庫でもあるのです。彼はアマゾンの民、コカマ族の出身でここから船で6日かかるペルーとの国境近くのタバチンバで生まれたということですが、「ジャングルはあなたたちにとって何?」と聞くと「神様たちの母」だと答えました。彼らにとってジャングルはかけがえのない大切なものなのです。そんなジャングルに何の畏怖の念もなく物見遊山でやってきたことをちょっと反省しました。

彼につれられて行ったピラニアの釣り場では牛肉をえさに釣ってみましたが、難しくてなかなかひっかかりません。アルテミオや釣り場の若者は次々釣り上げますが、私はえさをとられてばかりです。でもどうしてもピラニアを食べてみたかったので一生懸命です。2時間ばかりがんばりましたがどうしても釣れず、釣り場の若者が釣り上げた大きなピラニアを持たせてもらい、いかにも私が釣り上げたような笑顔をして写真だけ撮らせてもらいました。そしてそれをロッジでスープにしてもらい食べました。淡白な白身魚でなかなかおいしかったです。

次の日は船でマナウスから下流に10キロの2河川合流点に行きました。ここはネグロ川とソリモインス川が合流してアマゾン河となり大西洋に流れ込むのですが、2つの川の水が混ざらずに境界線をもって乾季で17キロ、雨季で70キロにわたり流れているのです。その原因は両者の比重と流速が異なるためですが、ネグロ川は黒く、ソリモインス川は茶色をしています。この場所では決して混ざりあうことはないけれど、いつか混ざりひとつのアマゾンという大河となるこの2つの川を見ながら、世界各地で絶えない紛争を思い、人間たちもこうなればいいのになあ、などとぼんやり考えてしまいました。

このあとマナウスに戻り記念にピラニアの剥製の置き物とキーホルダーを買って最後の訪問地ブラジリアに向かいました。しかし、タム航空がまたまた1時間半遅れて、着いたのは夜の8時20分、到着が遅くなるためサルバドールから予約を入れておいたホテルに9時に行きましたが部屋がありません。きっと着くのが遅かったので先に来た客を泊めてしまったのでしょう。よくあることです。空き部屋を探し、2軒は満室でしたが3軒目には泊まれました。やれやれです。

ブラジリアは1955年、当時のクビチェック大統領がブラジル中央高原の荒野に新首都を建設すると宣言、区画整理された機能的な都市づくりをやり1960年にリオ・デ・ジャネイロから遷都されました。
そんな興味深い街を歩きました。道路は広く立体交差やロータリーが多く、また信号も少ないので車はスムーズに流れています。美術館や図書館の建物も非常にシンプルで、かつひとつひとつが現代アートのモニュメントのようです。各省庁のビルは緑で統一され、窓のブラインドが少しづつグラデーションになっています。そして窓を開けた部屋と閉めた部屋ではモザイク模様になりとてもきれいです。国会議事堂も斬新なデザインで、すくっと立った28階建ての細い2つのビルと、白いお椀をふせた形の屋根の上院と、受け皿のような屋根の下院とがあります。その姿は青い空にくっきりと映えとても美しかったです。

ここはいつでも見学できるというので入ってみました。すると実際に国会が開かれ、質疑応答をしていました。緑と黄色のブラジルカラーのアクセントのある木の壁、さざなみのようなやわらかい光を放つようデザインされた天井、議場の周りにはスタジアムのように傾斜して椅子がとりつけられ、いつでも、だれでも会議の様子を見ることができるようになっています。中央の議場は明るく周りの観客席は薄暗くしてあり、まるで劇場で芝居をみているような、ちょっとわくわくする空間でした。
ここでひとりのブラジル人の女性と友達になりました。彼女の名前はイベッチ、家具のデザイナーをしているそうで、スペイン語が少しわかる彼女とポルトガル語を少し話す私とで何とか会話が成立しました。

ブラジリアはホテルはホテルゾーン、銀行は銀行ゾーン、官公庁は官公庁ゾーン、住宅は住宅ゾーンと機能第一に考えられているためホテルゾーンにはスーパーマーケットが一軒もありません。いつもスーパーで野菜や果物を買い、食事代を安くあげている私にとってはとても不便です。おみやげにブラジルコーヒーを買いたいのですがどこにいけばいいのか全くわからなかった私を彼女は自分の住宅ゾーンにあるスーパーに連れて行ってくれました。

ブラジルは今すごい勢いでレアルが上がり、ドルが下降しています。対日本円でも1レアル55円と上昇しているので、物価が高く日々泣いていたのですが、ここはとても安くてびっくりです。彼女に教えてもらったおいしいコーヒーは250グラムで2.65レアル、150円ほどです。ここで安いパンや果物も買うことができました。この住宅ゾーンの物価は特に安く押さえてあるのではないか、という気がするほど他の都市より安かったです。
ブラジリアの都市づくりは確かに機能的で合理的でかつ美しいと思います。道路も広く信号が少ないので車はスムーズに流れます。しかし逆にいうと通行人にとって信号の少ないのは不便です。
またホテルゾーンや官公庁ゾーンにはレストランはありますがスーパーはありません。ここで働く人たちの昼ごはんはどうするのだろうと思っていたら、やはりありました。官公庁の近くの公園のまわりにはたくさんの食べ物を売る露天が。そしてバスターミナルのまわりには小さなファストフードの店やジューススタンドが。最初はずいぶん整然とした芸術的で上品な町だと思っていましたが、やはりここも多くの庶民が生活している場所でした。

多種多様な民族が生活する商業都市サンパウロ、200年間ブラジルの首都として繁栄し、今なお国際観光都市としても賑わいを見せるリオ・デ・ジャネイロ、音楽好きの人々が暮らすサルバドール、広大なジャングルが残るアマゾンにあるマナウス、そして機能的な近代都市ブラジリアと5つの特徴ある都市を見て歩きました。それぞれの都市は違う国だといってもいいほどの全く異なる顔を持っていました。

しかし、その中で共通しているのは、人々は明るくとても親切だったことです。言葉のわからない私にも一生懸命いろいろ説明してくれますし、男性は必ず重い荷物を持ってくれます。地下鉄やバスでは席を譲ってくれます。それでいて興味半分で声をかけてくることはありません。ひったくりにあったりして怖い目にもあいましたが、ブラジルで暮らすのもいいかなーなんて思わせるほど私にとっては波長のあう国でした。

しかし、その一方で、この国の問題点も少しかいま見えました。実際はどうかわかりませんが、ブラジルは今すごい勢いで経済発展しているといわれていますが、その原動力になっている国民の購買力が盛んな原因は、健全な経済状態にあるのではなく、どのような品物でも月賦払いができるため、借金が増えているのだという意識がなくものを買いまくっているためだという指摘もあるのです。
そしてブラジル人の労働意欲の低さです。ここブラジルはいつも手の届くところに果物がたわわに実るような豊かな大地があり、川や海に行けば魚が取れます。たいした衣服もいらない熱帯気候、もしくは温暖な気候です。そのためブラジル人はそうあくせく働かなくてもいいんじゃないのと思っています。できればなるべく働きたくないと思っています。そして大のお祭り好き。祭りのためならどんな犠牲もいとわず一生懸命ですが、労働意欲という点では日本人とは比べ物にならないくらい低いと思います。

ブラジルには広大な国土があり、土地は豊かな農作物を生み出し、石油も出る。鉱物資源も豊富、川や海にはおいしい魚が住み、観光資源もいっぱいと、発展していける要素は十分です。ブラジル人がほんのちょっとだけやる気を出せば、ブラジルは底知れない可能性を秘めた、とんでもない国だと思います。でもやっぱり無理かなー。