いつかどこかで

ときどき、いつかどこかで見たような光景に行き当たることがある。まあ、大抵の場合には以前来たことがあったりするのだけれど、場合によっては来たことはないけれど夢の中で見たとか、似たような状況になったことがあったとか、そういうことが原因のようだ。昔から夢想ぎみのところがあったから、ときどき、体験したのは現実だったのか、夢の中だったのか、わからなくなることもある。まあ、そんな状況が長く続くと、そのうち、あの世に召されるのかもしれない。

先日、二度寝したときに見た夢はふるっていて、全てうまくいかないと、「ああ、これは夢なんだから適当にできたことにしてしまえ!」なんて、結構いい加減に対応していた。夢の中で、これが夢だと思っているのだから、まあ、ややこしい夢だったことはこの上なかった。

さて、ずっと購読していたコミックが完結してしまったので、何か新しいものでもと、ずっと避けていた(あまりにもファン過ぎて雑誌を定期購読しそうだったから)浦上直樹氏の「ビリー・ザ・バット」の単行本が新しい3巻が出たのをいいことに大人買いして読み出したときも「どこかで見た感じ」を感じた。浦上直樹氏はどちらかというとアクションのある作品に特徴があり、昨年も「20世紀少年」や「MONSTER」などで注目を集めた人気作家である。ところで、ビリー・ザ・バットの中でキリストが出てくるくだりを読んでいて、似たようなシチュエーションのキリストをどこかで読んだなあ、と、ふと、光瀬龍(+萩尾望都)の「百億の昼と千億の夜」を思い出していた。

世界の混乱、騒乱のもとが、ひとつの神という絶対なモノを信じることに由来する排他主義にあるのだとすると、一神教を説いたキリスト自身は果たして善だったのか? 悪だったのか? 神学者ではないので安易に答えを求めるものではないのだが、ものの善悪といった問題を取り扱おうとするとどうしても、信じることは正しいのか、と同じようなシチュエーションにたどり着くのかもしれない。苦しいときの神頼みで、どんな神仏にもすがるときはすがり、忘れるときは忘れる典型的な日本人のおかげで、どうみても不信心な、果てしなく無信教に近い多神教主義者なのだが、果てしない信じるものに基づく争いを見るにつけ、ときには相手の神様も信じてみるべきだと思った。

そういえば、どこぞでも、果てしない論争が続いているが、論理で説得できない者は根底から信じてしまっている人の信条なので、そこは論争で解決しようとせずに、一度、相手の立場になってみるという思考訓練をしてみてはどうかと思っている。まあ、まず、その前に、仲直りをして、仲良く腹を割りながら酒を飲むというのもいいと思うんですけどね。飲みニケーションは非常に有効な融和手段ではあります。先人の知恵ですね。