片岡義男さんを歩く(4)

片岡さんへのインタビューの日に、初めて雨が降った。お話を聞く喫茶店、2階の窓際の席から雨の降る通りが見える。質問について考える間の沈黙。「謎はとけたでしょう」と片岡さんは笑うけれど、後から片岡さんが書かれたものを読むと、こちらの受け取ったよりはるか遠く、片岡さんの思考が延びていたことに気づく。新しい短編集が届いて、あとがきのページを開くのが、とても楽しみだ。

――短編集の出版がもうすぐですね。私は新刊を手にすると「あとがき」を最初に読んだりします。片岡さんの「あとがき」がいつも楽しみです。ジェリー・ガルシアをインタビューした翻訳本『自分の生き方をさがしている人のために』(草思社/1976年刊)の翻訳者あとがきを切り取って本を処分してしまって、後から本文も読みたくなって買いなおしたことがあります。

では、今日は「あとがき」の話をしましょう。最新の短編集のあとがきに何を書けば良いかについて。

――ファンにとっては「あとがき」は特別楽しみなのです。
最近早川文庫の『花模様が怖い』に収録された「狙撃者がいる」について、岸本佐知子さん、山崎まどかさんが書評を書かれていました。今の小説は、あの作品のような分かりやすさはないように感じますが。

いや、同じです。何かをやるわけだから、主人公が。今日はその話になりそうですね。長編であろうと短編であろうと、主人公が何かを体験する話でしょ。だから10歳くらいの子どもから主人公になれるのです。10歳の少年を主人公にした短編小説はたくさんありそうです。

――『少女時代』も好きです。

あの作品は典型的でしょう。少女たちが何かをやるわけですから。主人公は10歳からあとなら、何歳でも良いのです。100歳でも、幽霊でも。幽霊が何かやるなら。

――幽霊小説! でも「狙撃者がいる」の場合、アイデアがスカッと出ているように思えます。

やっていることが単純ですからね。撃つだけだから。当てればいいわけだから、射的屋で楽しんでいるようなものです。

――でも、当てることができるというのは凄いことです。

『少女時代』の少女たちも、何かをやるわけです。何かをやるとはどういうことなのか、そのことについて考えるとおもしろいかもしれませんね。

――少女たちはいなくなったり、死んでしまったりします。

死ぬというのは、何かをするということの究極みたいな感じもします。本当は究極ではないのかもしれないけれど、文芸的にはそうです。

――変化の最たるかたちのようにも思えますね。

ええ。変化の究極みたいなかたち。でも、あまりにも文芸的だから好きではないですけれど。

――今の作品の方が良い?

主人公たちは生き延びるために何かをしているわけだから。何もしない主人公っているのかな。いないでしょうね。

――でも、片岡さんの主人公は特に波瀾万丈な生き方をしているようには見えません。その人の変化がわかりにくいように感じます。また、そこが魅力なのですが。

以前はそうですね。主人公は暇な人です。オートバイに乗っているだけの人とか。

――そこがおもしろいと感じました。取り立ててストーリーがあるというわけではなくて。

ええ。生き延びようとしている人たちというのは、社会的なのです。端的に。

――片岡さんに、健康的な社会性というものを感じます。社会とは違う生き方をしているけれど社会性があるというか......。

社会性と簡単に言うけれど難しい。給料を貰っていればそれでいいというわけではないでしょう。今回の短編の主人公というのは、かろうじて食っているというか、クリエイティブなことで生活を支えているというか。「食っていく」というものの言い方がありますよね。もう少しやわらかい言い方だと「生活を支える」という言い方。その問題で主人公をつくるとおもしろいかもしれない。

――ええ。

主人公って、ある時あらわれて、その時には彼らなりの一定の生活をもっているわけです。どういう風に生活を支えているのか、そこが決まらないと主人公が決まらない。稼ぐということだけが主題ではなくて、主人公として何をしているのかということで問題になる。

――どういうふうに片岡さんのなかから主人公が立ちあがってくるのですか。

僕のなかから出てくるのでしょうね。みんな僕が書くわけだから。一番楽なのは、働かなくてもいい人です。おじいさんが大変な資産を残してくれて、お父さんがしっかり管理してそれを受け継いだというような人。そういう人は、純粋に知らない街を歩けるわけです。純粋に酒場に入れるし、純粋に酒場の女性と口をきくこともできる。そして純粋に話が始まるのではないかな。だめでしょうか。何かをやることによって、社会のなかに、どこかに引っかかっているわけだから、バイアスがかかるし、そこからの視点になるわけです。フルタイムで働いている人というのは難しい。たまに書くことはできますが。たとえば仕事と仕事の間の1年間とか、ずっとしてきた仕事と次の仕事の間の空白期間とか。何にもしばられていないか、それに近い状態の主人公が良い。

――「図書」(岩波書店)の連載「散歩して迷子になる」の4月号で、「働くとは、なけなしの自分であっても、その自分が全方向に向けてまんべんなく発揮されることをとおして、全能力がこてんぱんにこき使われることだった」と書かれていて印象深かったのですが、自分の全身をフルに使って社会と関わることができる場所にいる人なのですね、片岡さんの主人公は。

極端に言えばね。そのストーリーの限りにおいては辛うじて。危なっかしい面はあるけれど。どうやって稼ぐかというのはおもしろい話ですね。それにプラスして何かが重なっていく。

――『動物のお医者さん』という漫画があって、その漫画の影響で獣医学部が人気になるということがありました。ある仕事が魅力的に書かれているとその職に就く人も増えるということがあるでしょうね。

獣医という存在もおもしろい。犬と猫だけでライフワークになり得るでしょうね。何かをできないといけないのです、主人公って。できればできるほど魅力的になるのかな、主人公として。あるいは、主人公の魅力はある一定の範囲内にとどまるけれど、話がどんどんおもしろくなっていく、そういうことがあるのかもしれないね。

――話はいつまででも続くのです。

続くでしょうね。この世に動物がいる限り......。きっと波乗りもそうですね。この世に波がある限りひとつとして同じ波はないわけだから。その波をめぐって、その前後の状況があるから話になるわけです。でも書く方も大変です。書く方もほとんど獣医でなければならないのだから。

――漫画家のまわりには、リサーチャーがいる場合もあるようですよ。

僕としては、ひとりで苦労する以外にないですね。主人公をめぐって。主人公の彼にとっても毎日があるのだから、夜になるとどこかに帰って、どこかで寝て、朝はどこかで目覚めて何か食べなければならない......ということを考えておかないとストーリー自体がつまらなくなる気もするな。面倒ですね、主人公って。自分より面倒です。自分そっくりに書くといけないのかな。自分そっくりでも主人公として成り立つならいいけれど。

――読む人は、主人公のことを片岡さんだと思っていたりします。

それは読む人の勝手ですから。書いてしまったら、読む人の自由です。今は書く段階のことについて話しているのです。簡単に言うと社会的な存在なのです。社会のなかにいて、どこかに引っかかって仕事をしたり、友だちがいたり、両親というものがいて、育った歴史があって、そこまできちんと考えておかないと、後で整合しない部分が出てくる。その時々うまく辻褄をあわせたようになるのでは嫌だなと思うのです。

――そういうことは、直感的にやっているのですか。

だいたいは、直感的にやっています。でもメモを書いたりしますよ、時々。

――そんな風に水面下で色々と考えているから、使っている言葉は少ないけれどイメージがはっきり出てくるのですね。

水面下はないとだめでしょうね、もちろん。でも、水面下ゼロというのもいいな。本当に表面だけの。

――どうやって書くのですか。

時間的に短い話なら書けるかもしれません。今日、明日の話。でも、時間が出てきてしまうかな。時間が出てきてしまうとだめです。過去が一切出てこない主人公というのはあり得るかな。ある部分楽だけれど、ある部分めんどうくさいだろうな。要するに、過去でしょう、その人って。今この瞬間って置物みたいなものでしょう。そういうことを「あとがき」で書いてもいいでしょうか。主人公とは何か。

――今回の短編集はそういうことを書いているようには思えませんが。(既に作品を読んでいる八巻さんの発言)

そうですね。僕自身もそう感じます。では、何を書いているのでしょう。短編集の作品を最初から順番に思い浮かべてみると......決して生活を支える話ではないですね。

――でも、つながっているのではないですか。

つながっていますね。例えば、最後の作品などは、ラストシーンが成立するためには、主人公があのような生活をしていないと成り立たない。

――それが主人公の社会性ということですか。

きっとそうですね。あの最後の場面に向かって、彼女のことが色々つくってあるわけです。

――書き始める時に、最後のシーンは頭のなかにあるのですか。

あの作品についてはなかったと思います。ごく普通にあり得ることを順番に書いていったのです。
「あとがき」に書くべきことが見えてきました。書きたいというか、一番大事な一瞬、あるいは一場面があるのです。それを実現させてくれる主人公を考える。主人公はどんな生活をしているかを考え、その生活のある場面から書き始める。これさえわかってしまえば、誰でも書けますね。

――そういう場面はどこから出てくるのですか。

わからない。

――何かを伝えている場面なのでしょうけれど。

いや。何も伝えていないでしょう。託したものは何もないし、何かの象徴でもない。
例えば最後に彼女だけが振り返るラストシーン。映画としてあの場面を見るとしたら、振り返るととても良い、振り返るのだったら、カメラをまっすぐ見る視線が良いと思う。でもその視線に意味はないのです。レンズの位置に視線があると良いということ。どこか、斜めに視線がずれていたらおかしいと思う、きっとそういうことなのでしょうね。表紙の絵についてもそう。ストーリーに出てくるものが、テーブルの上に色々と載っている絵になる予定なのですけれど、物の配置がとても大事です。僕はめんどうくさい人です。ほとんどのものが気に入らないのだから。

――小説論ですね。

書きたいことがたくさんあるわけではないのです。ある瞬間を書きたい、そこにもっていくために、いろいろ考える。

――その瞬間をとっておきたいのですか。

いや。書きたいだけです。書けるかどうかということです。

――読んでいる方も、その瞬間が手に入るだけで良いと思って読んでいます。書きたい瞬間がなくなったりはしないのですか。

瞬間だから、いくらでもあります。考えれば、おそらく。

――どこかで経験したことなのでしょうか。

わからない。もっとあやふやなものを書いたらおもしろいかな。ほんとうに一瞬で消えてしまうようなこと。いずれにしても、彼女だけが振り返る、それを書ければ良いのです。写真についてもそれで説明できるかもしれませんね。次は、写真集についての話にしましょう。

(2010年4月20日)