片岡義男さんを歩く(5)

片岡さんの写真に対して、どう受け取ったら良いかわからないという思いを抱いてきた。 小説で描こうとした一瞬、その大切な瞬間が、まさにぴったりの形を与えられて1枚の写真となっている、片岡さんの小説と写真にそんな一致を期待していたからかもしれない。しかし、片岡さんの写真は、そういうものではなかった。こちらの勝手なイメージを託すことも、何かそこに意味を読み取ることもできない、現実の風景に見えた。 今回『東京を撮る』と『名残りの東京』の写真を見ながらインタビューをして、写真を(風景を)見るとはどういうことか、その一端に触れることができたように思う。写真に切り取られた塀と生垣の緑と路地の色が、初めて見えてくる瞬間があった。 『なぜ写真集が好きか』(太田出版 1995年)のあとがきで、「撮影された写真は、被写体に対する客観的な態度というものの、高度な見本のひとつだ。」と片岡さんは言っている。そして「客観的に見たいという願望の内部には、世界や事物、そして人を、より正しく、より深く、結果としてより良く理解したいという願望が存在している。」と。その反対の態度「浅い主観で写真を撮ること、そして浅い主観をとおして写真を見ること」についても言及していて考えさせれられる。違ったものに見える片岡さんの小説と写真。その根底で、対象に向き合う態度(視線)は共通しているのではないかと思う。片岡さんの写真を見ることが、小説の読み方を深化させるような気がする。


――最新の短編集を出す左右社から写真集も出版されますね。楽しみです。写真集の題名はもう決まったのですか。

『ここは東京』です。いいでしょう。ありそうでない題名。3冊つくるといいかな。『ここは東京』『ここも東京』『ここが東京』(笑)

――その「は」と「も」と「が」の違いは?

何もないです。ただ3冊つくりたい、と。写真は撮れば撮るほど増えていくわけですから、撮らなければ増えないのだけれど。

――今、撮りたい気持ちなのですか。

ええ。よーく見ながら歩いているとあるのです、被写体が。写真集のあとがきの文章としては、エッセイと評論の中間のような文章ではなくて、ライブ感がある撮影の延長のような文章がいいかなと思っています。写真を撮っているのと同じ感じで。

――今回の写真集のために撮影した場所はだいたい同じなのですか。

神田が多いです。神田と神保町と新橋と下北沢。あまり遠へは出歩いていないのです。

――新橋のおもしろさとは。

もう少し前の、サラリーマンの時代の新橋がおもしろかった。10年くらい前。持ちつ持たれつという感じで支えあっていたサラリーマンの、会社の外の世界。昼飯と夜の酒の街。今は荒んでいるというか、サラリーマンの世界も底が抜けたでしょう。神田はまだおもしろいです。物をつくる人たちの街だから。神田は仕事場と住居が同じだったりするので、古い感じが壊れていない。

――その街の、どんな風景を撮っているのですか。

これが難しい。

――『東京を撮る』(アーツアンドクラフツ社 2000年7月)ではかなり神田を撮影していますね。この写真集では、写真の横に短い言葉が添えられています。

写真の横に言葉がないほうが良いよね。撮って終わっているのだから。

――言葉もなかなか味わい深いです。さすがにうまい、と。

写真がじょうずだと言っていただきたい(笑)。写真は、撮影して、特に印刷されてしまうと写真の出来ばえだけが問題なのです。写真の出来ばえと言うか、写真が何をどう写し取っているか、その問題だけだと思うのです。だから誰が撮ったかという問題は、できるだけ消えてしまった方が良い。

――そのように言うカメラマンはあまりいないと思います。

いないでしょうね。これが残念です。あくまでも撮った人の名前が付いてくる。どんどん名前が大きくなってきてしまって、そのことに満足する。写真ってそんなものではないのです。出来ばえだけが問題でしょう。いい景色がまだあるでしょう。(『東京を撮る』のページをめくりながら)この建物ももうない。撮影した風景の半分以上が今はない。すごいよね。

――これを撮ろうと思ってから、この構図にするまで時間はかかるのですか。

かからないです。この辺だろうと思ってファインダーを覗くと、ドンピシャリです。
これいいよね。こういう風景をみつけるとうれしい。(『東京を撮る』p55の民家が並ぶ小さな路地の写真を見ながら)

――うれしいのですね。

うれしいでしょう。ものすごくよくできている風景。これを作れと言われても作れないでしょう。これもすごい。(p81の玄関先の鉢植えの並ぶ写真)こういうのがなくなってきているよね。人々がこういうことをやらなくなってきた。これもいいでしょう。(p93を指して)

――ちょうちんがお好きなのですか。

その構図が。あり方がおもしろいでしょう。東京そのもの。どこにもない風景。ボストンにもベイルートにもバングラディシュにもない。

――この東京の風景のどこに魅かれるのですか。

風景の出来ばえたるや...。写真に撮ることによって、一段とよくなる。そう思いませんか。僕が撮ったからではなくて、写真に撮られたことで良くなる。

――確かに、こうやって写真に切り取られることで、つくづく見るようになりますね。街を歩いていてもよく見るようになると思います。

ぜひそうなってほしい。ちょうちんは、このように見上げていただきたい(笑)。

――切り取られているということが重要ですか。

もちろんそうです。僕は切り取るのが好きなのでしょう。つまり、街を歩きながら、見つけごっこを楽しんでいるのです。どんなものが見つかるか、そして見つけたら今度は切り取ることを楽しんでいる。写真になったら写真になった時の出来ばえというか、写真になった風景を楽しんでいる。

――見つける物の傾向は変わっていったりするのですか。

変わらないです。幅は広いでしょうけれど。しかし被写体は『東京を撮る』の頃の方が今よりずっと良いはずです。

――『東京を撮る』は、10年前ですね。

10年経つとわかります、はっきりと。この窓枠などは、いつ取り払われてもおかしくないでしょう。なくなったらそれきりです。全く同じように作って、20年くらい放置しなければこうならないわけだから。被写体が出来てくるまでには時間がかかるのです。だから時間のなかを歩いているというか、時間を見て切り取っているというか。一番表面に見えている形から時間がむこうに延びている。その時間を仮に止めるという楽しみもあります。

――「写真で何かを訴えているのですか」などと質問されると困ってしまうでしょうね。

社会的な意味はないのです。写真的な意味はたくさんあるけれど。

――そこがよくわかりません。

分からないと言って、怒ったりする人がいます。なぜわざわざこんな写真を見なければならないのか、どこにでもある風景ではないかと。

――カメラを構えていない時もこう見ているのですか。

見ているでしょうね。ああいい景色だな。こういうふうに切り取るといいだろうなと思いながら見ています。

――前回のインタビューのなかで、小説と写真は共通だと言っていらしたでしょう。

いや、共通ではないでしょう。

――共通のものに見えないのは、私に写真を見る目がないからだと思っていたのです。

共通したところはほとんどないでしょう。同じ人がやっていることではあるけれど。言葉だけで、こうは描けないでしょう。(『名残りの東京』東京キララ社 2009年 の1枚を指して。)この景色を言葉で描くのは難しい。これを書こうと思ったら心象で描くのかな。

――写真の順番はどのように決めるのですか。

まず見開きの組み合わせを考えます。

――見開きに並んだ作品を楽しめるというのは、本のよさですね。

そうです。結局こういう本は、見たい人は買って好きように楽しめばいい。それしかないでしょうね。楽しめる人だったらいろんな風に楽しめる、楽しめない人だったら全然楽しめない。

――突き放されたように感じるかもしれませんね。懐かしい景色の蒐集だと勘違いされるかもしれません。

蒐集と言うなら、芸術作品の蒐集です。道端にある芸術品。歩いていればいくらでもあるのです。美術館で見たら、モダンアートでしょう。

――その意見に賛成する人は少ないと思います。

残念ですね(笑)。

――ぱっと見て、片岡さんと同じように「いい」と思えなければだめでしょうか。

そうですね。

――どういう意味があるのですか、などと聞いてしまった段階でだめですね。

おしまいですね。

――この風景を作った人と、片岡さんの感性が似ているということなのですか。

技術が進歩しているから、今はこうは作らないということはあるでしょうね。戸袋なんて今はないわけだから。いったん消えてしまうとおしまいなのです。その後にできてくる物がおもしろいかというと、全然おもしろくない。
あそこ良いですね。(喫茶店の窓から見える一角を指して)4時30分。今の光、ちょうどいいな。こういうことはよくあります。ああ、いいなと思って時計を見る。ある日、4時半にこの喫茶店に来ると僕があそこで写真を撮っている。いずれ写真集のなかにその風景が固定され、この喫茶店でその写真集を見て、「どこだと思う」と質問してもわからない。

――写真集のあとがきに取り掛かる前に、撮影に連れて行ってください。

『名残りの東京』のタンメンをもう一度登場させましょうか。子どもの頃からある店なのです。ショーウインドウの同じ位置にあるから、全く同じに撮れるでしょう。今から見に行きましょう。

(2010年5月6日)