しもた屋之噺(103)

数日前に夏休みで日本に戻った家人や5歳の息子と、普段なら晩御飯を食べ終わるのが午後8時前。外は夕暮れにすらならなくて、階下で家人が子供を風呂に入れたりしていると、食卓のベンチに寝転んで思わず空を見上げます。抜けるような深い青空に、薄い綿菓子のような雲が幾筋か棚引いていて、目を凝らしつつどこまで地球なのだろうと考えます。重力がなくなれば、あの深い空に真っ逆さまに落ちてゆくのかと思うと、こちらが雲の上にいる錯覚を覚えて、空が深く碧い海にも見えてきます。

今月はずっと家で仕事をしていましたから、子供が風呂から上がって寝る前に、ベッドで一緒に物語を読むのが常でした。日本語の絵本は沢山ありますが、イタリア語のレパートリーは少なくて、決まって三匹の子豚かヘンゼルとグレーテルをせがまれました。ヘンゼルとグレーテルの父親が森に子供を捨てる下りは読んでいて気分が悪くなるのですが、それでも飽きずにどうしても、とせがむのです。

庭で芝刈りをしていると、その息子に何気なく、どうしてせっかく咲いた花を刈ってしまうのかと聞かれ、答えに窮すこともありました。確かに芝の雑草を抜いていると、無心で懸命に生える雑草が哀れに思えることがあります。先生の方針なのか、息子の通う幼稚園では絵を良く書いていて、朝起きるとそのまま机に向かって一人でせっせとペンを走らせていて、親よりよほど創作意欲が旺盛なのです。花をたくさん書くようになったと思っていると、春先から、庭の芝生や大木を描くようになりました。

息子が一足先に日本に帰ってしまったので、彼がこの一年創作した絵やイヴェントの写真を幼稚園から受け取ってきました。家に着いて中を覗くと、今年一年の作品を集めたバインダーの表紙は、自分で切り絵とペン書きを組合わせて作った庭の大木で、今も目の前に見えていますが、毎朝目を覚ますとまっさきに目に飛び込んでくるこの木が、幼い息子にはどんな風に映っているのだろうかと思います。

バインダーをめくると、ヘンゼルとグレーテルの話が出てきて、自らお菓子の家と兄妹二人の絵を描いていました。ヘンゼルとグレーテルばかりをせがんだのは、こんな伏線があったからで、どうして読みたいのかと聞いても、ただ面白いからとそっけなく答えていたのは、学校のことを説明するのが面倒だったのか、イタリア語が厄介だったのかわかりませんが、もっと読んでやれば良かったと省みたりします。

自分が五歳の頃、父とどう接していたのだろう。電車で漢字の書きっこをしていたのは覚えているけれど、こんな風に父親にも本を読んで貰っていたのだろうか。だとしたら、覚えていないのは少し悔しい気がします。父にはよく肩車してもらったけれど自分が息子に肩車をしてやった途端持病の眩暈が出て寝込んでしまったし、公園で一緒にシーソーをしただけで目が回ってしまうありさまですから、今も矍鑠としている父と比べるのにも無理があるのですが、その昔、父がいつも徹夜で働いているのを、子どもながら感心しつつ不思議にも思っていました。自分があんな風に働いたら倒れるのは確かなので、改めてそこまでして家族を養ってくれたことに感謝の念を新たにします。

アメリカから戻ったばかりの瀬尾さんと加藤くんからメールが届き、書き送ったばかりの4手の新作をこの短い時間で立派に仕上げて初演してきてくださったとのこと。仕事の遅い自分に愛想が尽きることもしばしばですが、にも関わらずこうして声をかけてくれる人がいるのだから、やはり頑張らなければと励まされる思いです。

この原稿を美恵さんに送ったら、来週から練習の始まる貰ったばかりのカザーレのチョムスキーによるトーク・オペラを読み始め、8月以降の譜読みと平行して日本に戻るまでにビエンナーレや松原先生、大井くんの新作に目処をつけることは、或いは出来ないかも知れないけれど、やれるところまでやらなければいけない。子供が色砂で書いた太陽のような明るいひまわりの絵を机に飾って、シャワーを浴びてこようと思います。

親子はこれから益々離れてゆくでしょう。あれから35年後、思いも及ばなかったミラノと東京という距離で暮らしているとしたら、35年経って自分が生きていたら、果たして息子とどれだけの距離があるのでしょう。この朝焼けでどこまでも透明な空を見上げながら、そんなことを思います。

(6月30日ミラノにて)