フージー・サド
平和について考えました
書こうとして、なぜ消える、
わたしの詩、昭和33年の初夏。
思い出そうとして、消える、
あなたの声――今日もあしたも。
詩集から、文字が消える、
とりのかげのように。
鉱物採集は失敗したみたい、
それでも帰って来ました、はやぶさ。
マングローブの林で、
こんやだけ咲く、サガリバナ。
古語で「かなしい」と口ずさむと、
悲しくなります、中学生。
(教育実習の先生〈男性〉が、聞き取れない発音で口ごもりながら、熱心に組み立てていた授業を、中学生の私は、何度も何度もぶちこわした。二週間がたって、実習期間のさいごの日、先生はみなに別れのあいさつをして、広島での被爆が、片頬から半面にかけて大きなケロイドをのこしていること、そのために発音がうまくできなかったことを詫び、それから私のほうをむいて、「フジイくん、好きだよ」と、一言。なぜその先生は実習のはじまる最初に体験を言わなかったのだろう。実習期間のさなかに、どうして言ってくれなかったのか。)