鯛焼きがあれば良いのではなくて

片岡義男さんの2年ぶりの短編小説集が出版された。『階段を駆け上がる』。
七夕の日に手に入れて、仕事の行き帰りの電車の中で少しずつ、7つの物語を楽しんで読んだ。どの物語も素直なおもしろさで、久しぶりに届いた小説集が、変にひねった所のない、明るい魅力(陽が正面からあたっているような)に満ちている事をうれしく思った。

今回の短編集には7つの物語が編まれている。どの物語も登場人物は少ない。1組の男女の会話で話は進行するといってもいいくらいだ。複雑な人間模様や、奇異な事件があるわけでもない。しかし、どの物語も最初と最後では主人公たちがほんの少し変化している。そしてその変化が、これから何かが始まっていくような予感を連れてきて物語が閉じられる。何かが始まっていくような予感。読後に残る気持ち気持ちの良さは、ここから来ているのかもしれない。読む人の心のなかにも、これからへの予感がひろがっていく。

主人公の「変わらなさ」という魅力も、もう一方にある。最初の作品「階段を駆け上がった」の百合子さんは、10年にわたって魅力的な後ろ姿だ。最後の作品「割れて砕けて裂けて散る」のエリンはすさまじい雨嵐に叩かれてもへっちゃらに彼女自身だ。変わらなさというのは、今のあり方が正解のあり方だからなのか。

主人公たちは、どのようにも変わっていきそうな自由さと、こうでしかありえないという確信さの両方を持っていて魅力的だ。しかも主人公は若い。「夏の終わりとハイボール」の主人公は37歳ではあるけれど、これは若者の物語だと感じる。なぜだろうと思って読み返してみた。鍵は主人公たちの身体性にあるように思った。主人公たちの反応する身体がしなやかでみずみずしいのだ。社会のなかで、様々なことにしなやかなに身体ひとつで対処している主人公の自由さと揺るぎなさ。ここからかっこよさが生まれてきているように思う。

身につけているものや言葉使いが現在ただ今のものだから若者なのではなくて、身体の在り方が若い人なのだ。若者の風俗を描かなくても、若者を書き続けることができる、片岡さんの小説の魅力をこんなところにも私は感じる。そしてこれから何かが始まっていく、何物にも限定されていない若い人たちの物語は魅力的だ。

まちがってはいけない。鯛焼きがあれば良いのではなくて、鯛焼きひとつ胸にかばってへっちゃらで歩く伸びやかな身体が必要だ。