音楽はなぜか心をかきみだす。音のうごきは音を追って、ふたたび起こり、音のなかに消えてゆく。どうしてこの無償の、それ自身の軌道の上でそれ自身を追いかけるにすぎない音の戯れ、響きつづけることしか望んでいない音の世界にこちらを向かせようとか、ある意味をもたせ、ある情報を入れこみ、あるいは抽き出し、ある目的のためにそれを使うことができるのだろう。象徴や指標として使われる音のかたちは、文化や時代によってさまざまだったし、社会がもたせた機能が、ことばのように明確に伝わるわけではない。その社会のなかでも、音楽は社会的機能に収まらないあいまいなところがあり、それだからちがう時代やちがう地域でも受け入れられる場合もあり、それがすべて誤解であるとも言えず、音の美しさというものが、音響学的あるいは美学的、哲学的に定義できるような超越的な価値をもつようにもあつかわれてきたが、そのような論議はすでにある音楽についてのものであれば、決定的な根拠をもたないままに、論議が論議をよび、研究の上に研究の研究があるような、音楽学の歴史ができただけだった。
物理学が実験によって証明できるようには、音楽から生まれた音楽論は、そこからふたたび音楽を創る力をもたない。音楽家が音楽をするときに感じていることと、その結果が論じられるときのことば、たとえば楽譜を書きはじめ、書きつづけたときに作曲家をうごかしていた見えない力、神秘的なものを想定しているのではなく、この音の次にこの音を書いていくという決断と選択の連続がどのようにはたらいたかということは、音楽理論や、実際的な条件や制限だけでは語れない、なにか別な作用で、後からの分析ではない、音とそれを音符として書く人間の連携作業のような側面があり、それはできあがった楽譜の分析からは追体験できないのではないか、それを書いた人間でさえ、それを説明することができない、意識にのぼらなかった部分があるのではないか。そうしてみると、作曲という行為は、作曲家だけのものではなく、よびさまされた音の運動との恊働作業と言ったほうがいいのではないか。
おなじことが演奏にも言えるかもしれない。楽譜になった作品の演奏は、演奏者と楽器、その出会いから起こる音の運動、楽譜を書いた過去の作曲家とその時の音、さらにまさにいま、そこにいて演奏をきいているひとたちの存在、それらすべてを含む音楽空間のなかで進行している。
音の自律的な運動はイメージあるいはたとえにすぎない。音がうごいてメロディーになり、メロディーが次々に音を生んでいくということは結果からさかのぼるイメージで、人間の身体運動が自分の声帯を含む楽器から音を引き出すという状況での、技術に還元できない部分をイメージの連続性で覆っているとも言えるだろう。個の身体が音に共感するのは、歴史的な身体と身体の共振、文化的空間のなかでの情感による間接的な撹乱とも言えるし、音をどのように受け取るかは、受け取る側の自律的な認知行為で、ある音に対して一定の行為を誘導する保証も根拠もない。さらに音は全体的な振動現象で、それがはじまり、一つのまとまりをつくるまでが、聞く行為の対象になり、一つ一つの音や、主題や動機と呼ばれる作曲理論上の構成要素が一対一の対応をつくることはありえない。
18世紀から20世紀にいたる近代音楽史は、オーストリア・ドイツ的な構成的音楽観に囚われていた。その上での進歩主義が崩壊したのは、せいぜい1968年の社会的撹乱をうけて、価値の多様性が再登場した後のことではないだろうか。ミニマリズムは、破片となった構成的統一を最少限すくいあげようとする西洋音楽のあがきとも言える側面をもっていたと同時に、アフリカやアジアの音楽文化の継承してきた身体性を見直すきっかけともなったとも考えられる。経済主義・商業主義に汚染された他文化の私有と知的財産化が問題であるにしても、コロニアリズム的オリエンタリズムとはちがう、ネオコロニアリズム的グローバリゼーションの時代が来た。
身体の復権にともなって、即興性、身振りの引用と転用、コラージュとパロディー、知的論理や認知主義にかわって、内在行動や情感の優位と、分節された構成ではなく、輪郭の循環性による、差異の戯れのなかに姿をあらわす組織の特異性が、すこしずつ音楽のなかに認められるようになった。ゆるやかに変化するもの、軽やかさ、多彩な音色、微妙にゆれうごくリズム、微かな音に耳をすます能力、これらが、まだアカデミックな垢となって新しい音楽の表面に付着している前世紀の技術主義的・構成主義的遺物のなかから、まだほとんど意識されない兆しとなって芽生えているようだ。