マレーシアのクアラルンプールに行ってきた。マレーシアはじつに十年ぶり。クアラルンプール在住十七年のヒロカワ氏が車で空港に迎えに来てくれる。「今回は、肉骨茶(バクテー)研修旅行だからね。肉骨茶の聖地とか、有名店とか、チャイナタウンの店とか色々案内するからね」と、車の中でヒロカワ氏。
ちょうど、共通の友人が日本とバンコクから遊びに来るのに合わせて、わたしと連れもタイからクアラルンプールにやって来たのだが、日本から来る友人ミントちゃんは、先日ヒロカワ氏が日本に一時帰国した際にお土産でもらった「肉骨茶の素」で作った肉骨茶がすっかり気に入り、仲間内で「肉骨茶同好会」なるものまで出来上がっているほどの入れ込みようである。もちろん、ヒロカワ氏自身が大の肉骨茶好きでその仕掛け人だ。「毎日、肉骨茶ぁ? 肉骨茶は好きじゃないから、不参加ね。一回ぐらいは食べてもいいけど〜」じつはヒバリもお土産で「肉骨茶の素」をたくさんもらったが、匂いをかいですぐに友人にあげてしまっていた。「え、ええ〜」
さて「肉骨茶」とはいったい何なのか? 肉骨茶は、バクテー(Bakkut teh)と読む。中国の華南地方、潮洲の言葉でバッが豚で、クが骨、テーは茶。(潮洲は福建省の広東寄りの地方である。マレーシアには中国からの移民、華人が多く、そのほとんどを華南の広東省と福建省の出身者、民族的には広東人、潮洲人、客家人、海南人などで占める)肉骨茶とは、つまり骨付き豚バラ肉(スペアリブ)のスパイス煮込みである。スパイスは八角、クローブ、シナモンなどいわゆる中華の五香粉の味をイメージしていただくといい。
スペアリブやホルモンをこのスパイスとニンニク、甘みのある中国醤油で柔らかくなるまで煮込み、湯葉、戻した干しシイタケ、白菜などを加える。出来上がりに、カリカリに揚げた湯葉や、緑のシャキシャキしたレタスを鍋の上にトッピングしたり、中華揚げパンの油条をちぎっていれたりしてもいい。中国茶を飲みながらごはんと食べる。
ルーツは潮洲料理だが、肉体労働者として連れてこられた中国人苦力の朝ごはんとしてマレーシアの中華社会で独自に発展・定着した。大鍋でぐつぐつ煮たものを小鍋に分けてもらい、米の飯にかけて掻き込むのが本来の食べ方である。いまや、屋台だけでなく専門のレストランまであり、朝だけでなく夕食にも鍋料理ふうにして食べるほど人気だ。
ヒロカワ氏の案内で出かけた店は、肉骨茶専門店で、ガイドブックにも乗っている有名店であった。どうせならもっと通な店にしてほしいなあ、と思いながらも肉骨茶以外のメニューもたくさん注文する。
大きな土鍋で出てきた肉骨茶からは、かすかに漢方の香りが漂う。じつはわたしはこの漢方スパイスの八角が、ダメなのである。この店の味付けはあまり八角が多くなく、思わず口から吐き出す、という事態には至らなかったのは幸いであった。一緒に食べている人が吐いたりしたら、同席している人はさすがにいい気分はしないであろう。ヒバリはこの八角というスパイスをうっかり口に入れると、体が拒否反応を起して、げろりと口から出したり、激しく吐いたりしてしまう。匂いをかいだだけで、もぁ〜んと気分が悪くなる。これは、好き嫌いの問題ではなく、アレルギー反応なのである。
八角は、スターアニス、または大ウイキョウとも呼ばれる。モクレン科の樹木の果実を乾燥させたものである。東南アジア原産で、他の地域では育たない。中国では古から愛されたスパイスで、豚肉やカモ肉の煮込み、甘い料理、お茶やコーヒーに加えたりもする。星型の可愛らしい形で、甘い香りがある。
アロマテラピーの本を読んでいたら、スターアニスは、食欲増進、健胃、吐き気を抑える、利尿作用などの作用を持ち、消化器系によいスパイスではあるが、神経系を刺激しやすく、アレルギー体質の人の使用は避けるようにとの注釈がついていた。なるほど、八角自体がアレルギー源ではなく、神経系を刺激するという性質なのか。
アレルギー体質で、食物では大豆、乳製品、ある種の酵母、ナッツ、小麦胚芽などなどに拒否反応を起こし、花粉症、ぜんそくもある身としては、八角は避けるべきスパイスであるが、身体の方が先にちゃんと避けてしまう。乳製品などの食べ物のほうは、ある程度食べて気分が悪くなるとかの症状が出るまで、身体は拒否しないことのほうが多いので、やっかいである。
八角味が薄そうなので、どんな味かと肉片を一つ食べてみた。う〜む、ふつう。シイタケと白菜を食べてみた。う〜む、ふつう。まあ、ヒバリはこれから一生、肉骨茶を食べなくても生きていけます。甘めの味付けがあまり好みではないのかな。いや、むしろもっとすごくおいしい店に連れて行かれていたら、アレルギーに苦しみながらも肉骨茶のトリコになったりしても困るから、こういうふつうな味のレベルの店でよかったのかも。
後日、肉骨茶の発祥の地といわれるクランという場所で食べた肉骨茶をミントちゃんはほめていたので、美味しい肉骨茶はちゃんと存在する、らしい。
華人の多いタイにも、八角風味の煮込み料理がある。タイの中華社会は潮洲人が圧倒的に多い。肉骨茶とまったく同じものはタイ中華にはないが、同じような味の料理はある。カイパローという豚バラ肉とゆで卵と厚揚げのスパイス煮込みである。カイパローは中華の枠を超えて、タイ人にも愛される庶民料理だ。一皿料理にしてもいいが、ごはんの上にかけて食べてもいい。あとはアヒル肉の煮込み。その煮込みを乗せたごはん、カオ・ナー・ペット。どれも味つけはかなり八角風味の強い漢方スパイス・甘い中国醤油味だ。
肉骨茶研修ツアーには参加しなかったが、夜はみんなでごはんを食べた。ビールを飲んでまったりするには、お酒の飲める中華系のレストランや屋台がいい。
「ねえ、クアラルンプールの中華ってけっこうおいしいと思わへん?」同じくマレーシア十年ぶりの連れに聞く。「ほんまやね。タイの中華よりおいしいぐらいかも」クアラルンプールの屋台で食べる中華の麺や料理は、各地域の中華料理のルーツを保ちつつ、本土よりずっとおいしいのである。レストランにしても然り。
十年前まではビザの書き換えなどでよくタイからマレーシアに来てはいたが、マレーシアなのだからマレー料理を食べなくては、と思い込んでいたフシがある。だが、どうにもマレー料理になじめなかった。料理に興味の持てない国からは、自然と足が遠のく。
今回クアラルンプールに来て、料理を通してマレーシアの華人社会にやっと目が向いた。人口の25%を占める華人。その華人の出自には四種類ある。英国植民地時代にスズ鉱山や港湾労働者として連れてこられた、貧困層や農民出身の華人であるククット(苦力)系をルーツとする華人。彼らはほとんど奴隷のように扱われたという。中国籍を保ちつつ貿易や商売をした華僑の、子孫の華人。そして植民地時代に英国籍を持ち支配階層として君臨した富裕な貿易商の子孫であるプラナカン系華人。さらに植民地時代の後、共産党中国から逃げて移住してきた華人たち。
肉骨茶とは、ククット系華人の育てた汗の匂いのするソウルフードだったのである。植民地という時代を経てマレーシアの華人社会は独特の成り立ちがあった。チャイナタウンは同じような顔をしているが、潮洲人中心でタイとの同化も進んでいるタイの華人社会とは中身がまったく違っていたのだ。
ゲストハウスの華人の女主人は四十代で若々しく、9999ナンバー(ベンツと同じくらい高価)の白いベンツを乗り回し、ナイトクラブも経営する実業家であった。親の代からお金持ちだったのかと尋ねると「父親は金持ちだけど、十人も奥さんがいる男で、一銭もお金はくれなかった。すべて自分で築き上げたわ」と笑いとばした。クアラルンプールにはまだまだ華人パワー健在であります。