しもた屋之噺 (108)

街をゆきかう人々の頭を覆う毛糸の帽子が目立つようになったと思いきや、今朝は夜半から粉雪が舞い始め、目の前の風景はうっすら雪化粧しています。ここ暫くは朝晩深い霧が立ち籠めていて、そんなときはドライアイスに似た焦げ臭い匂いがそこはかなく漂います。深い秋の香りです。街のあちこちに掛けられた気の早いクリスマスの電飾を無意識にからかっているうち、今朝の雪の到来はすっかり冬へと季節が移り変わっていたことを気づかせてくれました。

雪と言えば、今月半ばインスブルックの演奏会からの帰路、夜明け前のアルプス越えのブレンネル峠は猛吹雪が吹き荒れて、一寸先も見えないほどでしたが、麓のボルツァーノに着くころには、紅く燃え立つような朝焼けに果てしなく広がる、澄み切った空気の美しい秋晴れに心が躍りました。

インスブルックではドナトーニ没後10年に因み、拙作や友人たちの作品とともに、ドナトーニの「Arpege」や「Lumen」をオーストリア放送協会のラジオで演奏しましたが、特に「Arpege」関しては、さまざまな演奏家と何度も演奏してきて、初めて本番で満足のゆく演奏ができました。完璧な演奏よりもむしろ、今まで納得のゆかなかったテンポ設定を大胆に代え、ヴァイブラフォンの余韻で聴こえにくかったリズムを特に際立たせ、協和音程を互いにゆっくり聴きあうことで見えてきたものを、演奏会で形に出来たということでしょう。

ブレンネル峠への道すがら、ドナトーニが埋葬されている故郷のヴェローナを通りました。彼は今もコンクリート壁に誂えられた殺風景な共同墓地に仮埋葬されたままですが、当初は没後10年で、故人の生前の希望に則り、記念墓地の名士の墓に移される予定でした。「先日ヴェローナ市役所から、今ごろになってやっと審査のためドナトーニの経歴書を送れ、なんて電話を受けたのよ」。
アルプスに向かって急峻な山肌の底を這う一本道をひた走りながら、マリゼッラが憤慨していました。没後5年で故人を偲ぶ演奏会があれば、優れた作曲家。没後10年でまだ演奏会の機会があったなら、それは相当優れた作曲家だった証し。没後50年で演奏会があれば天才と呼べるだろうし、没後100年でも演奏されれば、それ以上の才能だったということ。生前よく笑いながらそう話していましたが、確かに的を得ていて、イタリア人独特の伝統に対する嗅覚の鋭さに驚かされます。無数のちりあくたが堆くつもっているからこそ、伝統の深みが増すのでしょう。
今月初めまで尾形亀之助をテキストにマドリガルの小品を書き溜めつつ、初めて日本語に対する恐怖心が煽られなかったのも、そんな認識に安堵を覚えたからかも知れません。来月東京で演奏するプーランクの「人間の顔」やペッソンのアダージェット編作を読んでいても、彼らが特に伝統に敏感なことにどうしても目がゆくし、伝統という言葉の底に澱んでいる、積み上げられた過去の時間の重さをおもいます。

プーランクは中学から高校にかけて一番よく聴いた作曲家でした。初めて練習したクラシックのピアノ曲は高校入試で弾いたプーランクの「夜想曲」だったし、入試の和声課題の当日肌身離さず持って歩いていたのも彼のチェロソナタでした。高校で最初の理論ピアノの試験も、下手の横好きで懲りずにプーランクの「憂愁」を弾いたし、「仮面舞踏会」を小編成に編作して学校で演奏した覚えもあります。彼自身がピアノを弾きベルナックが歌っているシャンソンのレコードは特に気に入っていて、こんな風に歌曲が書けたらどんなにか素晴らしいだろうと思っていました。来月並んで演奏する拙作の「ひかりの子」も、明らかに「人間の顔」に感化されていると思うし、当時はプーランクを介してモーツァルトやシューベルトが好きになったものでした。今回の亀之助のマドリガルも、足元にも及ばないながら「動物詩集」のような世界を夢見て書いていたことは確かです。

今回「人間の顔」を演奏するにあたり、20年以上経って改めてプーランクの楽譜を開くと、掴みどころがないほど難しいことに驚き、過去の自分が何一つ理解していなかったことに唖然としました。学生をしながら音楽を嗜んでいたころは、主観や恣意的思い込みに偏っていたのでしょう。かかる桃源郷も人生の或る時期には大切かも知れませんが、音楽が自分のためだけに存在するのではなく、一つの音の裏には数え切れない人々の人生がぎっしり詰まっていることを実感したなら、昔と同じように楽譜を開くことが出来ないのは当然だろうし、実際に音になるその瞬間まで、一つでも楽譜から真実を見出そうと躍起になるのも、自分がこの世界で生きてゆく上で最低限担うべき責なのでしょう。
音楽ごとき霞を喰らって生かして貰っているのなら、その程度の自覚は必要じゃないかい。ドナトーニの言葉は、微笑を湛えて静かに諭しているようにも感じるのです。

(11月26日ミラノにて)