"クレージー・ハート"に触れてみる

ロードショー公開を見逃していた「クレージー・ハート」(スコット・クーパー監督・脚色)を飯田橋ギンレイホールに追いかけて見ることができた。落ちめのカントリー歌手をジェフ・ブリッジスが魅力的に演じて、本年度のアカデミー賞主演男優賞を受賞した作品だ。主人公は、かつて一世を風靡した伝説のシンガーソングライター、バッド・ブレイク。自分で車を運転しながらアメリカ中をドサ回りしている57歳だ。

例えばある晩のステージはボウリング場のレーンの横にしつらえられた小さなスペース。出番前に飲み過ぎてしまって、間奏のあいだに裏口で吐いたりしている。「やれやれ」という状況なのだけれど、どんな町にも目をキラキラさせて彼を見つめるファンが1人か2人は居て、ちょっと泣かせる。一方バッドも、やるときはやるという感じで、時折りキラリと輝く本気の一瞬を見せたりしている。全編、スクリーンの真ん中にいるのは、このくたびれたおじさんなのだけれど、何ともいえない存在感があって、どことなく魅かれてしまう。

映画のもうひとりの主人公、ジーン・クラドックは、バッドにインタビューするためにやってきた駆け出しの記者だ。もともとファンだったこともあって、インタビューを通してますます彼に魅かれてしまう彼女。ずっと年上の、今はもう時代遅れになってしまった彼のなかにある、"輝くもの"を見出したからだ。

彼女が彼のなかに見出し、魅かれたもの、それが"クレージー・ハート"だ。"クレージー・ハート"・・・それは音楽を生み出す才能のことであり、同時に普通の暮らしにはどうしても収まることができないハートのことだ。自分には無いものとして魅かれ、ためらいながらもクレージー・ハートに手を伸ばして触れてみるジーン。"クレージー・ハート"を持つ人と、"クレージー・ハート"に魅せられて手をのばさずにはいられない人と。この二人は互いを認め合い、結びつくことができるのだろうか。クレージー・ハートを持つものと、クレージー・ハートを理解するものとは等価の存在として一緒に生きていくことができるのだろうか。ジーンに感情移入しながら、ちょっと深よみすぎる感想を持った。

"クレージー・ハート"を持つ限り、バットは家庭に収まりきれずにドサ回りを続けることになるのだし、"クレージー・ハート"を持ち続けるからこそ彼から魅力的な歌が生まれてくる。だから、2人はずっと一緒にいるというわけにはいかなくなる。ジーンは"クレージー・ハート"に魅せられながらも、離れていくしか方法はない。

映画は、2人のハッピーエンドに終わらないのだけれど、むしろその結末が新鮮な幸福感を残す。離れてしまったからこそ、ひと時のことだったからこそ、"クレージー・ハート"に手を伸ばして触れてみたという経験が、色あせることのない永遠のものとなって、いつまでもジーンを照らし、勇気づける光のようなものになっているのだ。

クレージー・ハートを持つものと、それに魅せられるもの。
表現者とそれを受け取るもの。
ジーンの姿に自分を重ねながら、そんなテーマに心が捉われている。