cogito, ergo sum

新年、あけましておめでとうございます。

東京駅丸の内の旧国鉄本社ビル跡地(というと覚えている方は随分と少なくなったのだろうけれども)にある丸善の四階に「松丸本舗」という面白いスペースがある。そのスペースの隣が、丸善のハヤシライスを食べさせる軽食堂なのだが、その隣に非常に雑多な本の並べ方をした書店棚があり、実はその中をうろうろとうろつくのが面白い。知識は多接的、有機的な結びつきで結びつくことで有効利用できるようになると考えているので、それを具現化したようなその空間は知的な刺激を受けるのに最適な環境のように思う。そういった中で、ふと、おかしなことを思いついたりする。

さて、私たち自身の自我はなにに基づいているのだろうか?
思考が脳だけで行われると思うのであれば、一切の外界からの刺激のない赤ちゃんの状態を考えてみると面白い。果たして、その赤ちゃんに思考は芽生えるのだろうか? 後天的に刺激が受けられなくなった場合にはなんらかの思考がありそうな気がするが、先天的に一切の脳への情報を遮断したとすると、おそらく、心すら芽生えないのではないだろうか? アン・マキャフリーの小説で、「歌う船」というシリーズがあり、この中で生体の脳を使って宇宙船や都市機能を制御する話がある。しかし、実際に人体と異なる感覚器をセンサーや情報の入力器として接続された場合に、歌うといった行為を身につけるのかどうか、非常に疑問に思う部分である。

例え、女性と男性の人体と頭脳が入れ替わったとしても、自分のクローンの体に頭脳が移植されたとしても、うまく動くのかどうか疑問が残る。

知識はニューロンの間に、各々の特徴を繋いだような形で、それぞれが複雑な発火の末に集約された答えを選ぶ、いわゆる連想モデルでモデル化できるにしても、どこにもルールのない世界から、赤ん坊が知識を得、そして一個の人格ができるとは思えない。少なくとも、感覚器を通しての接触と反応で世界を覚えるとともに、模倣で行動を覚えるような普遍の自己プログラムルールがあるに違いない。「2001年宇宙の旅」のHALのような人工知能は、そうした人間の知識獲得の
ルールが見つかったのち、実現されるに違いない。しかし、それが人格としてできるかどうかは、頭脳と感覚器の問題の解決を待つ必要があるように思えてならない。

古来、健康な肉体に健康な精神が宿ると言ったが、頭脳と多数の感覚器を有する体とは、切っても切れない関係があるのかもしれないなどと、考えてもいる。おそらく、今後、新しい感覚器や代わりの感覚器を頭脳に接続したり、頭脳の一部をコンピュータで拡張したるするような研究が進むだろう。果たして、そうして取り換えられたり、拡張された自分はもとの自分と同じなのだろうか?