1964年秋、分断されて3年たったベルリンの西、森の小径を歩きながらクセナキスからエピクロス哲学の話を聞いた。その後『ソクラテス以前の哲学者たち』をギリシャ語とドイツ語の対訳で読み、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』の最終巻『エピクロス伝』をギリシャ語と英語の対訳で読んだ。
ミシェル・ビュトールにその後パリで会った時、アメリカでナイアガラの滝を見てクリナメン(偶然のわずかな偏り)を理解したと言っていた。さらにその数年後バッファローで、雪の日にクセナキスの運転する小さな車で、ナイアガラを見に行ったことがあった。滝の一部は凍っていたが、流れて激しく落下する水の飛び散る先には、小さな虹が立っていた。それはクリナメンの創造する多重宇宙を映す鏡のようだった。水の粒子はぶつかり、まず反発する。出会いは結びつきではなく、ちがう方向に離れるほうが先になる。目に映る水は、落ちる時、一つの流れからはぐれた粒子の軌跡を一瞬見せる。
1965年パリで、新刊のアルチュセール『資本論を読む』と『マルクスのために』を読み、「重層的決定」や「認識論的切断」のようなことばのナイフで、論理を切り裂いてひらかれた隙間で、ちがう問題意識に移るプロセスがいくらか見えた。1968年5月はもうそこまで来ていた。その頃はヴィトゲンシュタインやクワインを読み、唯名論に興味をもっていた。問いのなかにすでに答えが含まれているなら、問いかたを変えるよりない。
だが、構造は変化しても、構造という枠のなかにいる限り、保護されはしても、いずれ脱ぎ捨てる殻とならなければ、うごきはじめたものも繭のなかでひからびてしまう。1968年はやがて制度に回収され、1990年の崩壊を待たなければならなかった。たとえ殻をやぶって新鮮な空気に触れたとしても、身体は、やがて新しいうごきかたをまなび、それに慣れていく。永続するクリナメンともいうべき一時的結合と離反のプロセスを手放さないように、それぞれのエピクロスの庭を内側にもつことを時々たしかめるのがいいかもしれない。カフカのように、「速く歩いてから耳をすますと、夜であたりが静かなら、しっかり留めてない壁の鏡や日除けがかたかたいうのが聞こえる」(八つ折ノートB)。それでも共生関係にまつわりつかれないで、創造したままの世界全体を見渡すこと、しかもそれが核心からの視点であると同時に、いつでも移動できるようにして故郷に留まっている(八つ折ノートH)、立っているのは二本の脚で立つのがやっとのところ(同じくG)。
こうして『カフカノート』のプランにもどってきた。1986年の『カフカ断片』、1987年の『可不可』、1989年『カフカ・プロツェス』、1990年の『可不可2』の試行と失敗をふりかえり、あらためてテクストを集めはじめる。以前の作品のように演劇でもなく、室内オペラでもなく、ノートブックそのもの。そう思ってはじめたが失敗した試みにまたもどる。もう進歩主義的歴史感もなく、唯一の正しい方向などありようもない、だが並列的に多様化したとは言えないし、多様化の見かけのなかで変化をきらい、現状維持されている世界とそこで創られる音楽について、一般論としての抽象的音楽論であるより、個別のケースにもどる。目立たないが、それをぬきとると全体の組み替えが起こるような小さなネジ、だれのものとは言えないが、だれともちがっている無名で非人称的変化、気づかれずに浸透していく、性格を持たない、偶然の痕跡。
カフカ自身が生前出版した作品からではなく、ノートブックに残した未発表の短編の一部、それよりも、書きかけて数行も続かず、時にはセンテンスの途中で停まってしまったことば。断片をさらに断片化し、脈絡を断ち切りながら並べる作業はコンピュータ上でスティッキーズという紙片を並べ替えながら、前回使ったマックス・ブロート編集の「標準版」(Fischer Taschenbuch)とその訳書である新潮社版全集ではなく、1992年に出版された手稿版(いまはオンラインThe Kafka Projectで見ることができる)から、それによる池内紀訳の白水社版『カフカ小説全集』よりも逐語訳に近い日本語を考える。読まれる文章の調子を変えないように、句読点を原文のままにする。歌にする場合は、ドイツ語の音節数に近づくように日本語の音節を削る。白紙の上に残された痕跡である文字を手がかりに、それを書いたペンの見えない作動プロセスに似たことを、別なかたちではじめられるだろうか。
パフォーマーは、ことばを空中にきざみこむペンとなって、よみ、うたい、舞う。どこでもない場所、いつでもない時。薄明かりとわずかな音。書くこと、書き続けること、細部にこだわりながら途切れることば、響き、動き。意味を持つ前の書く身体の身振りであり、意味や解釈ではなく、理解できなくても、あるいは、理解しようとするかわりに、ただ、限界線を引いて切り取ることば。とくにアフォリズムは、語源の通り、地平を限ることで、一般論や哲学や、まして教訓ではないだろう。それを書いた手の、そのときの状況に即して、行為の地平を限定すること。ことばは意味や解釈で言い換えるのではなく、そこから浮かび上がる音と影のような姿、夢見るような自分の声でない声、音階からはずれていく歌、遠くからきこえてくるような響き、唐突だが抑制された身振り、反復されながらずれていく動作、眼の前で夢を払いのける手を感じながら、はこばれていくだけ。夢見る人のいない夢、突然の転換と停止。断片を断片として、始まりもなく終わりもなく、はじまったものは途中で中断され、流れの方向が変わる。
だが、これもまだぼんやりした期待、それと気づかずに失望がしのびこんでいるような。以前の2回の試みがそれぞれ一度限りのイベントに終わったように、今度も思ったようにはいかないだろう。もともとがカフカのノートブックのように、失敗の痕跡の集積を意図して創るのだから、予見をたえず裏切る展開、角を曲がると、どこかで見たようでもなじめない風景がひろがっているような、そんな幸運を望めないにしても、それだからいっそう。