日本映画の監督のなかで、いちばん好きな人が阪本順治だ。監督デビュー作『どついたるねん』の一場面、今は現役を退いたコーチ役の原田芳雄が、主人公不在の練習場でひとりパンチを打ち込む。パンチが重なっていき、気持ちもどんどん高まっていくその頂点で、通天閣にバチバチっと電気がつく映像がさし挟まれる。彼のエネルギーが、通天閣に電気をつけてしまったのか!「そんな、アホな」と思うと同時に、この監督のことを心から気に入ってしまった。
第2作『鉄拳』でも、殴られて歪む菅原文太の横顔のあとに、宇宙にぽっかり浮かぶ青い地球のショットが挟まれていた。阪本自身も『孤立、無援』(2005年ぴあ)のなかで「たとえ物語が一回止まって意味不明になったとしても、イメージショットのようなものを挿入したくなる」と述べているが、何かふっと、本気をそらすような、あまりにも思いつめている自分をからかい、そのことで緊張をほぐして自分を励ましているような、彼独特の表現方法が好きになってしまったのだった。
そして、そんな、ふざけた飛躍とは正反対であるが、現実(人間)に対する彼の誠実な向き合い方にもう一方で魅力を感じた。絵空事には見えないと言えばいいのか、彼の作品には、人は確かにこんな風に愛したり、悲しんだりするのだろうなとリアルに思わせてくれる力があった。「こんなセリフ現実には言わないよ」とシラケルことがほとんど無かった。かといって、映画が現実をそのままなぞっているという事ではない、彼の描く世界はむしろ全くの虚構だ。或る種の「夢」だと言ってもいい。日常の生活に埋もれさせてしまっている感情を、例えば「あのように愛したい」「こんな状況になったらきっぱりと闘いたい」と思い出させてくれるという意味での「夢」だ。「夢」は現実を見ないためのものではなく、俳優たちは、夢見ることをきちんと成立させてくれるだけの現実感をもってスクリーンのなかに存在している。阪本監督の演出にそういうことを感じる。それは、ひとは現実にどう振る舞うのか、どう生きるのかということへの深い洞察なくしてはできないことではないかと思う。
最新作『行きずりの街』(2010年11月公開)でも、12年振りに再会する2人のラブシーンが、言葉のやりとりによって、言葉にならないものを伝えようとする体の動きによって描かれていた。ひとが人を想うという行為が、そのゆたかな感情が、スクリーンからあふれ流れてきて、心を揺さぶられた。「こんなふうに出会い、愛することができたら」というひとつの夢が、信じられる夢として、現実に生きる俳優によって、描かれていた。誇張された表現も、ドラマチックな演出も無く、とても静かに。静かなラブストーリーは、あまり話題にならずにロードショーも終わってしまったようだ。この美しい映画が、話題にならずに終わってしまうのがもったいない。